78回 平家滅亡をめぐる旅の途中で、76回の桃太郎・77回の武蔵と小次郎のように、平家に関係ない銅像にたくさん出会った。今回の乃木希典夫妻(左)も、思わぬ出会いだった。 彼の生涯や人となりは、46回乃木希典にかなり詳しく書いているので、こちらをお読みいただきたい。 1849年に江戸の毛利藩邸で生まれた。先祖は、代々医者として毛利藩に仕えた。10歳の時に長府に移り、16歳の時から萩で勉学。だから下関の長府は、乃木希典のお膝元である。 毛利氏は、戦国時代には中国地方一円を支配するほど力があったが、関ヶ原の戦いのあとは、減封されてしまう。 長府は、萩藩の支藩として藩を興したのにはじまる。毛利秀元が串崎城に入ったのは慶長7(1602)年。関ヶ原の戦いから2年後のことだ。城下町を形成した当時は、200軒の武家屋敷が並んでいたそうだ。 長府でゆっくりしたいのはやまやまだが、時間がない。長府のさわりだけでも見ることが出来たのは、下関在住のFちゃんが車で案内してくれたおかげだ。 毛利氏の居城である串崎城址にも行けず、毛利邸などは外観を見ただけだ。 でも古江小路などかつての侍町には、古びた土塀や長屋門が残っている(左)。ここを散策しただけでも充分だ。「よくぞ残っていてくれましたね」と声をかけたくなる。 乃木神社は、そんな城下町の散策路にあった。希典が育った家(大正3年に復元)も境内にある。当時のままを復元したというが、6畳と3畳の2間と土間しかない。質素な家に驚く。部屋には、父母が希典少年に訓話している人形がおいてあった。 東京乃木坂に残る家も、こじんまりとして、むしろ馬小屋の方が立派だ。陸軍大将を務め、学習院の院長にまでなった人の家にしては質素だ。いまだに乃木大将を慕っている人が大勢いて、「乃木会」があるのは、こんな人柄にもよるのかもしれない。
境内を掃いている方が宮司さんだった。私たちが仙台の高校の同級生だと話すと「青葉神社の宮司とは親しいんですよ」から始まり、「水師営」の歌」を、「あなた達の親なら知ってるけどねえ」と口ずさんでくれた。 水師営は日露戦争のときに、乃木大将とステッセル将軍が会見した村の名前。旅順から北西4`にある。村の民家の庭に1本の棗が植えてあったという。文部省唱歌「水師営の会見」(佐左木信綱作詞 岡野 貞一作曲)を聴きたい方は、下線のクリックを。 1 旅順開城(りょじゅんかいじょう)約(やく)なりて 敵(てき)の将軍(しょうぐん)ステッセル 乃木大将(のぎたいしょう)と会見(かいけん)の 所はいずこ水師営 2 庭に一本(ひともと)なつめの木 弾丸(だんがん)あともいちじるく くずれ残れる民屋(みんおく)に いまぞ相見(あいみ)る二将軍 (以下9番まであるが、省略) 「東京の乃木神社に行ったことがあるので、水師営の歌詞は知ってますよ。ここには、棗の木も植えてあるんですね」と宮司さんに話した。5人とも、宮司さんの説明にいちいち反応するタイプなので、宮司さんは喜んだようだ。売っている「乃木さんの棗ケーキ」を一袋くれた。ちょうど5個入っていたので、昼食の時に食べた。真ん中に大きな棗が入ったバター風味のマドレーヌで美味しかった。 マドレーヌに自分の名前が使われていることに、乃木さんは目を白黒しているにちがいない。神として祀られていることにも、驚いているかもしれない。
(2009年5月9日 記) 感想を書いてくださると嬉しいな→ 銅像めぐり1へ 次(石川啄木)へ ホームへ |