79回 早世した文学者や音楽家はたくさんいるが、なかでも石川啄木(左)は、わずか26歳2ヶ月(1886・明治19年〜1912・明治45年)という短い生涯だった。 言うまでもなく、「あこがれ」「一握の砂」「悲しき玩具」で有名な歌人である。今なお共感を覚える歌が何首もあり、明治時代に生を終えた作家なのに、古さを感じない。 6月末に、高校のクラス会が盛岡で開かれた。当時の担任は、新アララギ派の選者をなさっている歌人。おまけに幹事が国文科出身なので、どうしても岩手を代表する文学者の石川啄木と宮澤賢治めぐりということになる。 まず訪れたのは、盛岡市郊外にある石川啄木記念館。以前は渋民村だったが、いつの間にか表示が「盛岡市玉山区渋民」に変わっている。 「かにかくに 渋民村は恋しかり おもひでの山 おもいでの川」「ふるさとの山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」の渋民である。記念館からは、おもひでの山(岩手山と姫神山)が東西に見え、眼下には、おもいでの川(北上川)が流れている。 記念館の展示で、妻の節子さんも彼の死後約1年で亡くなったことを知った。3人の子どものうち長男は生後すぐ亡くなり、長女と次女(啄木の死後生まれた)は親戚が育てた。長女は2児を残して24歳で他界。次女も19歳で亡くなった。記念館の職員に「子孫はご存命ですか」と聞いてみた。「はい、東京に住んでいらっしゃいますが、文学者ではありません」の答えだった。 記念館に隣接して、啄木が学びそして代用教員をつとめた渋民尋常小学校が移築されている。中に入ると当時の机や教壇がそのまま残っている。だれもが「あら!なつかしい」の声を発した。上の像は小学校前庭にある啄木と子ども達。「その昔 小学校の柾屋根に 我が投げし鞠 いかになりけむ」
繋温泉に宿泊した翌日は、盛岡市内を回った。盛岡は9歳から新婚時代まで約10年を過ごした地である。神童と言われた啄木だが、盛岡中学(今の盛岡一高)のときは学業に身が入らなかったらしい。 「不来方(こずかた)のお城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」 啄木を物心両面で支えた盛岡中学時代の先輩が、言語学者の金田一京助だ。高校の講堂で、金田一京助の講演を聞いたことがある。啄木が極貧の中で亡くなったこと、借金ばかりしていたことを、ついこの間のように話してくれた。当時でさえ没後50年は過ぎているのに、同時代の人のように親しみを感じたのは、友人ならではのエピソードに満ちた話が多かったからだと思う。
結婚後の啄木は、めまぐるしく職業や住まいを変えている。生活が安定していなかったからか、飽きっぽかったからか、だらしがなかったからか、プライドが高く更なる出世を望んでいたからか。 盛岡→渋民→函館→小樽→釧路→東京の移動は特にめまぐるしい。函館に向かったのが明治40年5月、北海道の3都市に別れを告げ東京に向かったのが明治41年4月。北海道の函館と小樽と釧路にいたのは合計しても1年間だけだ。 私は函館や小樽の文学館で啄木に関する展示を見ている。釧路には数年前に2度目の訪問をしたが、街はろくに見なかった。ネットで検索してみたところ、立派な銅像や石碑があり、散歩コースも出来ていた。 東京でも本郷などゆかりの地には、説明の立て札がある。朝日新聞の跡地・京橋には、歌碑とレリーフが立っている。校正係で入社した朝日新聞では、歌壇の選者もしていた。「京橋の 滝山町の 新聞社 灯(ひ)ともる頃のいそがしさかな」 こうしてみると、啄木のおかげで観光が成り立っている地域がたくさんある。生きている頃に、もう少し優遇してやっていたら、結核にかかることもなかったかもしれない。「たら」「れば」は言っても仕方ないが、あふれるばかりの才能を、もう少し長い間、生かしてやりたかったなと思う。 偉人をたくさん輩出していて風光にも恵まれている盛岡は、観光には事欠かないと思うが、啄木の扱いは傑出している。新幹線盛岡駅の壁には、啄木の字で「もりおか」とある。「もりおか啄木・賢治青春館」は、ふたりが青春をはぐくんだ地としての盛岡を紹介している。 妻の節子と出会った「啄木であい道」は、北上川沿いの散歩道だ。わずか3週間しか住んでいない「新婚の家」も見学者に開放していて、しかも岩手交通のバス停の名前にもなっている。 ひねくれ者の私は、どうしても次の歌を思い出す。「石をもて追はるるごとく ふるさとを
(2009年8月9日 記) 感想を書いてくださると嬉しいな→ 銅像めぐり1へ 次(宮澤賢治)へ ホームへ |