行きあたりばったり銅像めぐり
 80回

 宮澤賢治

宮澤賢治顔 石川啄木(銅像めぐり石川啄木参照)に出会った盛岡で、宮澤賢治(左)にも、ぱったり会った。

 啄木と賢治は両者とも岩手県で生まれ、同じ盛岡中学(今の盛岡一高)で学んでいる。盛岡中学時代に短歌をはじめたのは、先輩の啄木の影響を受けたからだと言われる。

 賢治は1896(明治29)年生まれで、啄木より10歳若い。1933(昭和8)年に亡くなったから、啄木ほどではないが、37歳という若さで世を去っている。

 生まれた地も亡くなった地も岩手県の花巻だから、花巻には「宮澤賢治記念館」「童話村」「イーハトーブ館」はじめ、歌碑もたくさんある。賢治が農業を多角化して農民が豊かな生活がおくれるようにと考えた羅須地人協会も、「下ノ畑に居リマス」の黒板と共に、保存されている。

 「イギリスあたりの白亜の海岸を歩いてゐるやうな気がする」として名付けた北上川の川辺・イギリス海岸も名所になっている。何十年も前に、イギリス海岸という名前に惹かれて行ってみたのだが、白亜紀がなんたるかを知らなかった私には、ただの川辺としか映らなかった。

啄木・賢治青春館 盛岡は、賢治が盛岡中学と盛岡高等農林学校(今の岩手大学農学部)時代を過ごした青春の地だけに、「もりおか啄木・賢治青春館」(左)の施設や、ゆかりの地がたくさんある。

 「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「注文の多い料理店」「雨ニモマケズ」は、死後に広く世に知られるようになったもので、生存中は「注文の多い料理店」だけが出版された。それもほとんど売れなかったという。

 盛岡の農林高校では、地質学の助教授に推薦されるほどの秀才だったが、その職を断って羅須地人協会を作り、農民相手の農業指導に奔走した。農業ばかりでなく芸術についても説いたと言われる。 専門の科学以外に仏教にも造詣が深かった。文学と科学と宗教という3つの異なるものの一致をはかろうとしていたと言われる。

 宗教と科学に興味を持っていたのは、座右の書が「化學本論」と「法華経」だったことからも分かる。横浜で開かれた宮澤賢治生誕100年の展覧会に、「化學本論」の実物が展示してあった。その著者が父の恩師で仲人をしてくださった片山先生だと知り(母が語る20世紀13 参照)、びっくりしたものだ。

 上京してタイピング・エスペラント語・セロ・オルガンを習い、オペラを観劇するなどのモダンさも持ち合わせていた。もちろん彼が裕福な家で育っていたからである。

 そのモダンさを象徴している通りが、「いーはとーぶアベニュー材木町」。盛岡駅から15分ほど歩いて、北上川にかかる旭橋を渡ると、その通りがある。賢治をテーマに作られた町並みで、「注文の多い料理店」を出版した「光原社」や、背広姿の賢治像、愛用していたセロや星座のモニュメントが並ぶ。

 「光原社」は、今は民芸品を売る店だが、中庭には賢治のレリーフや「注文の多い料理店」を出版したいきさつや、その広告チラシに使った「イーハトヴ宣言」の意味などを展示している。

 賢治は「イーハトヴはひとつの地名である。強いてその地点を求むるならば、それは大小クラウスたちの耕してゐた野原や少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、デバンタール砂漠の遙かな北東イブン王国の遠い東と考えられる。実にこれは著者の心象中にこのような情景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である」と説明している。 

 イーハトヴはイハテをエスペラント風に表した言葉だという。彼が童話の中でよく使う私にはわけがわからないカタカナ言葉のたぐいだと思っていたが、理想郷としても岩手を表す言葉だと、この時にはじめて知った。ちなみに「モーリオ」は盛岡である。

宮澤賢治全身 愛用のセロ 光原社庭
材木町のアベニューにはこうしたモニュメントが6つもある。左手の側に帽子が置いてある賢治像。 愛用のセロ。上京してオルガンやセロも習った。 民芸品を売る店「光原社」の庭には、注文の多い料理店出版の地の石碑や賢治のレリーフがある。

 光原社に「注文の多い料理店」出版事情というパンフレットがあった。盛岡高等農林の1年後輩の及川氏は、農学関係教科書の出版社を経営していた。そこに賢治が童話原稿を持ち込んだところ、即決で出版が決まったという。レストランと間違えられそうな「注文の多い料理店」という題名と、「光原社」というしゃれた社名は、2人で考えた。

 表紙や紙を凝っていたこともあり、採算無視の出版だったが、及川氏の賢治に対する敬意と母校愛がそうさせたという。2人とも28歳の若さ。1924(大正13)年12月のことだった。賢治生前の唯一の童話集である。

 創業者は、鉄器の高橋萬治や民芸の柳宗悦、染色の芹沢_介、版画の棟方志功などと知り合いになり、出版の仕事から鉄器・漆器・全国各地の民芸を扱うようになった。

 出版を廃業した「光原社」だが、ここを訪れると、イーハトヴと賢治を誇りにしている姿勢が伝わってくる。創業者の精神が引き継がれている。

自筆の詩 賢治レリーフ 自筆詩
「春と修羅」の自筆原稿 レリーフ 「永訣の朝」の自筆原稿


                                                     (2009年9月8日 記)
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