行きあたりばったり銅像めぐり
  82回

  間宮林蔵

林蔵像 81回目の伊能忠敬像に出会った翌日、つくば未来市にある間宮林蔵の生家と記念館を訪ねた。もらってきたパンフレットには、茨城県筑波郡伊奈町と印刷されている。どうやら最近、新しい市になったようだ。

 隣接して「つくば市」があるのに「つくば未来市」とは、紛らわしい。記念館は、稲田の真ん中に建っていて、未来と名がつく市からは想像も出来ないような田舎にある。車のナビがなければ、たどり着かなかったかもしれない。

 間宮海峡を発見したとして名高い探検家の間宮林蔵(左)は、1780年生まれ。前回の伊能忠敬より35年後に生まれている。

 記念館で見た展示には、「21歳のときに函館で忠敬と師弟の約を結ぶ」とある。2人は出会っているばかりでなく、忠敬から測量法も伝授されている。林蔵は常陸の国、忠敬は上総国生まれ。ふるさとが近い事を知って、喜んだような気もする。

 この像は記念館と生家の間に立っている。生家は、少し離れた所から、ここに移築された。

 寺子屋に通っていたころから神童と言われていたが、16歳のときに、小貝川の堰止め方法を幕府の普請役人教えたことから、江戸に出ることになった。農家に生まれた彼が、幕府の普請役にまで出世したのは、才能があったうえに、後ろ盾になってくれる人がいたからである。


記念館入り口 生家外観 生家土間
記念館と生家の入り口 生家を見ている林蔵 生家の土間

樺太と間宮海峡の地図 記念館の内部は撮影禁止だったが、実印・極寒の地で使った毛布・頭巾・硯など身の回りの品々や、手紙類・樺太の地図・幕府に提出した報告書などが展示してあった。間宮海峡の発見者という以外に、ほとんど知らなかった彼に、少しは近づけたような気がした。

 幕府役人に従って、はじめて蝦夷に渡ったのは20歳のとき。蝦夷地探検は、国防にかかわるものであり、重要な任務だった。以後20年以上、蝦夷地で活動して、次々と成果をあげた。

 なかでも樺太探検は有名だ。2回目の樺太探検をした30歳のときに、間宮海峡を発見。土地の首長と共に清国にわたり、清国の役人と会見した。日本人の地名が、世界地図に記名されている例は、ほかにもあるのだろうか。このときの探検報告書は「東韃地方紀行(上中下)」として、幕府に提出している。

 左の地図は記念館で求めた「間宮林蔵」の冊子をコピーさせてもらった。1回目の探検は赤い線、2回目の探検は青い線で示してある。

 江戸に戻ってからの林蔵は、異国船の情報蒐集のために、隠密行動をとった。亡くなったのは天保15(1844)年。もうすぐ明治維新という時である。生涯独身だった彼は生家のほうは親戚が、江戸の間宮家のほうも他の人が継いでいる。

宗谷岬の林蔵宗谷岬の林蔵 上の地図の下の方に、宗谷と印字されている。2004年6月に、宗谷岬から樺太を向いている間宮林蔵(左右)に会った。

 近所の友人と利尻・礼文島を訪れた帰りに、少し時間が余ったので、稚内からタクシーで行った来た。

 日本の最北端のの地で見た林蔵は、大勢の人に囲まれ、華やいでいた。もし冬にでも訪れれば、樺太を眺めている林蔵の姿は、もっと凛としていたにちがいない。

 このときの銅像写真が、6年後に役にたって嬉しい。(2010年 5月23日 記)

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