85回
 
 貫一・お宮

 20010年9月、息子が八丈島2泊の旅に誘ってくれた。年金生活者の私たちを招待してくれたのだ。ところが、八丈島行きの飛行機が3連休で満杯。伊豆大島1泊に変更になった。大島に行ったのは大学4年の時なので、再訪するのも悪くない。

 伊豆大島に行くルートはたくさんあるが、行きは熱海から高速船、帰りは東京の竹島桟橋へ着く高速船を選んだ。揺れる船で吐き気と戦いながら渡島した学生時代のことを考えると、夢のように快適だ。

貫一お宮の像  高速船に乗るまで熱海をブラブラしているときに出会ったのが、貫一・お宮の像(左)。この像と「お宮の松」は国道の海岸沿いにあるので、何度も車の中から見ていたが、じっくり見るのは初めてだ。

 若い人は、貫一・お宮を知らないと思う。私とて尾崎紅葉の代表作「金色夜叉」、その主人公の名前が貫一とお宮・・程度の知識しかない。文学史の年表には必ず出てくるので、試験のために覚えたにすぎない。

 でも、なぜか歌のメロディは出てくる。「♪ 熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り ♪

 「1月17日。来年の今月今夜、貫一は何処でこの月を見るのだか!再来年の今月今夜・・10年後の今月今夜」の台詞も頭に入っている。

 一高の学生・間貫一と鴫沢宮は婚約者の間柄。ところが、お宮は富豪の銀行家の息子・富山唯継に嫁ぐことになった。怒った貫一は、熱海の海岸を散歩しながらお宮に理由を尋ねるが、お宮は本心を明かさない。

写真撮影の看板 許しを乞うお宮を、貫一は蹴飛ばして去る。私は物語のクライマックス、熱海での蹴飛ばしシーンしか知らないが、この後も延々と物語は続く。

 なにしろ読売新聞の連載は、1897(明治30)年から1902(明治35)年まで5年以上も続いた。紅葉は連載中に35歳の若さで亡くなってしまったので、のちに弟子の小栗風葉が完成させた。小説の構想が残っていたと言われる。

 紅葉が亡くなった時には、父も母も生まれていない。こんなに昔の小説で、しかも名作の評価がされていないのに、昭和どころか平成になってもドラマ化されている。大衆を惹きつける何かがあるのだろう。

 銅像のそばにある説明には「熱海は丹那トンネルの開通と、金色夜叉が世に知られるようになり脚光を浴び観光地として発展しました」とある。熱海にとっては「金色夜叉」さまさまらしい。駅前に続く商店街には「ようこそ熱海へ」と共に、写真撮影用の看板(左上)が建ててあった。毎年1月17日には尾崎紅葉を偲ぶ会も開かれている。


足蹴りの場面 ウィキペディアからの受け売りだが、間貫一のモデルは児童文学者の巌谷小波だという。巌谷には芝の高級料亭で働いていた須磨という恋人がいたが、小波が京都の新聞社に赴任している間に、大橋新太郎(富山唯継のモデル)が横取りしてしまった。

 小波当人はあまり気にしなかったが、友人の紅葉が料亭に乗り込み、須磨を足蹴りした。熱海の海岸のシーンはこの時のことが元になっているという。

 今は振られた腹いせに、親や兄弟を殺したりする輩もいるから、足蹴りぐらいカワイイものだ。この像は蹴られる場面(左)がリアルに彫ってある。1986(昭和61)年、熱海ロータリークラブが舘野弘青に依頼して建立した。ご丁寧にも1月17日に除幕式をしている。



お宮の松 ところで像のすぐ脇にある「お宮の松」(左)ってなんだろう?昭和61年以前は、銅像はなく、お宮の松しかなかった。足蹴りシーンに松が重要な役目をするのかと思っていたが、どうも小説には関係ないらしい。

 大正8年に、尾崎紅葉の弟子・小栗風葉(金色夜叉を完成させた)が、松の木のそばに「宮に似たうしろ姿や春の月」の句碑を建立したことから、いつの間にかその松は、「お宮の松」と呼ばれるようになった。句碑が出来る前は、羽衣の松と言われていた。

 この松は道路工事や排ガス等の影響で衰えてしまった。昭和41年に、新しく2代目「お宮の松」を植栽。この2代目も枝枯れが目立つようになったので、熱海市は、平成10年から樹勢活性化作業を行った。写真でおわかりと思うが、今は樹勢も強く大きく枝を伸ばしている。足蹴りをした1月17に、私もこの項をアップすることにした。  (2011年1月17日 記)

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