行きあたりばったり銅像めぐり
  86回

  板垣退助

100円札 50歳以上の方は、100円札の顔・板垣退助(左)は見慣れていると思う。100円が板垣退助、500円が岩倉具視、1000円が伊藤博文、10000円が聖徳太子という時代があった。

 聖徳太子の名は、ほとんどの教科書から消えるか、厩戸皇子のカッコの中に入ってしまう扱いである。でも、他の3人は日本史の教科書で健在だ。明治政府を作り上げた重要人物になっている。

 板垣退助の銅像に出会ったのは、もう7年前のことになる。母90歳の祝いに、日光の金谷ホテルに泊まった。ホテルの下を通る道路脇に、雑草に覆われた銅像が立っていた。ホテルに宿泊しなければ、おそらく目にしなかったと思う。

 もっとも、その場所は日光東照宮の参道入り口もなっていて、赤い神橋に近い。東照宮を造った天海僧正の像も隣にある。建立当時は、目立つ場所だったのだろう。

 板垣退助は、天保8(1837)年に土佐藩士の長男として生まれた。亡くくなったのは大正8(1919)年だから、当時としては長生きだ。単に長生きしたというだけでなく、日本史の中でもまれにみる変動期に活躍し、日清日露戦争の勝利、第一次世界大戦の勝利まで知っていたことになる。

 同じ土佐藩の坂本竜馬や中岡慎太郎が新しい時代を見ずに命を落としたことを考えると、運が良かったといえるだろう。彼は、竜馬のような下級武士ではなかったので、彼らの運動には参加していない。

 倒幕の中心藩・薩長土肥の下級武士が明治新政府の核にになったわけだが、土佐藩の重要人物は皆、亡くなってしまった。その代わりに板垣退助が登場したらしい。

日光の板垣退助 ところで、日光で板垣退助像(左)を見たときに、違和感を覚えた。昔の銅像にありがちな高い所から見下ろしているせいか、はっきりしないのだが、刀を差していることは確かだ。100円札のイメージとは、あまりにも違う。

 違和感をいだいたまま、銅像めぐりにアップすることもせず、ほってあった。それから6年後、去年の10月に岐阜で板垣退助に再び出会ったことから、日光の銅像について調べてみる気になった。

 彼は戊辰戦争で土佐藩兵を率いて、東山道先鋒総督府参謀の肩書きで従軍した。その途上に日光がある。そこでの戦いを避けたのが板垣退助だった。この銅像が、刀を差している理由が分かった。

 旧幕臣には「先祖の位牌に隠れて戦って、歴代の文物が焼けてしまえば徳川家は末代までも笑いものになるだろう」と説得。

 強硬破壊を主張する薩摩藩の兵には「陽明門には後水尾天皇の御親筆の額が掲げてある。焼き討ちすれば、天皇家の不敬になる」と説得した。

 このように、日光を戦火から守った大恩人ということで、天海僧正と並んでいる。

 戊辰戦争の功績もあって、新政府初の参与になる。薩摩から西郷隆盛、長州藩から木戸孝允、土佐藩から板垣退助、肥前藩から大隈重信と、薩長土肥から1人ずつ。

 西郷隆盛や江藤新平と一緒に征韓論を主張するが、ヨーロッパから帰国した大久保利通・岩倉具視らの反対にあい、新政府を退いた。
 
 板垣退助で真っ先に思い出すことといえば、民選議員設立建白書を出して、自由民権運動を起こしたことだ。「朝鮮に出兵せよ」と声高に叫んでいた人物と自由民権運動は、どう考えても結びつかない。野に散った西郷隆盛や江藤新平の方が潔いような気がするが、政治家に変節はつきものだから、私がとやかく言うことでもない。

金華山公園の板垣太助 民権運動の成果かどうかはともかく、明治14年に国会開設の詔が出された。10年後の国会開設に備え、板垣は自由党を結成。

 党勢拡大のために遊説していた明治15年に、岐阜で襲われた。このときに発した「板垣死すとも自由は死せず」が、自由民権を象徴するフレーズとして、世に広まった。

 ちなみに怪我の板垣を診療した医者が後藤新平。銅像めぐりの後藤新平の項でも書いているが、この治療がきっかけになり、後藤新平は医者から政治家に転向する。

 織田信長の居城があった岐阜市の金華山麓の公園に、板垣退助は手をあげて立っていた(左)。この写真を撮ったときは、土砂降りだった。ゆっくり説明を読めなかったが、板垣退助遭難の地という案内板が側にあった。

 「板垣死すとも・・」を授業で教わった時に「大怪我を負いながらも立派なことを言うんだな。お札になる人は違うな」と単純に思ったものだ。後になって「板垣退助は軍人としては優れていたが、政治家としての資質には欠けていた」の評価を読み、そのときの単純だった自分は若かったのだなと、おかしくなった。

 自由民権運動の推進者であったために、自由主義の思想を持っていたと誤解されがちだが、藩士の息子で育ち、新政府の中心にいた人物に、真の自由主義が芽生えるはずもなかった。特に自由を取り締まる内務大臣に就任後は、よく風刺画の題材にされた。「自由は死んだのに板垣は生きている」と揶揄されることにもなった。

雨に煙る岐阜城 もともと銅像めぐりは、銅像そのものを取り上げるのではなく、国内旅行を書くついでに、銅像もというスタンスだった。

 日光は母の卆寿の祝い、岐阜は日本史ウオーキングのときに、出会った板垣退助だった。

 左写真も土砂降りの中で撮った岐阜城。雨に煙る岐阜城は、むしろ翌日の快晴のもとで見上げた城よりも印象に残った。

 このときのウオーキングは岐阜に2泊したので、次の日、ロープウェイで頂上まで行き、天守閣の上から岐阜市内を見下ろした。ここに城を建てた天下取り信長の気分を少し味わえた。
(2011年2月23日 記)
感想を書いてくださると嬉しいな→
銅像めぐり1へ
ホームへ