88回 与謝野晶子(左)の短歌は、国語はもちろん、歴史の教科書にも載っているので馴染みがある。短歌に興味のない人でも、数首は諳んじているのではないだろうか。 実は個人的にも少しご縁がある。鉄幹と晶子の5女・与謝野宇智子さんと、ある職場で2年間ご一緒だった。母より3歳年上だが、母と女学校が同窓で、お嬢さんが私と同い年ということもあり、可愛がってくださった。宇智子さんは、面長のチャーミングな顔立ちで、鉄幹と晶子の両方に似ているような気がする。著書「むらさきぐさ-母晶子と里子の私−」もいただいた。 「むらさきぐさ」の中に、母の生家である堺市の和菓子屋「駿河屋」を訪ねるくだりがある。 堺という町には、若い時から関心があった。仁徳天皇陵(今は大仙古墳という)はじめ、巨大な前方後円墳(百舌鳥古墳群)がたくさんある。 戦国時代は、戦国大名の支配を受けない自治都市として有名だった。城の堀のようなお土居も作っていたという。交易を手掛ける豪商もたくさんいた。そんな豪商の中から、茶人の千利休など文化人もたくさん生まれた。 月日は経ち、初めて堺を訪れたのは2004年、古墳時代の史跡・百舌鳥古墳群を見るためだった。これについては「日本史ウオーキング(大仙古墳)」で書いている。堺の市街地に足を延ばす時間がなかったので、2011年の4月に奈良の吉野山を訪ねたついでに寄ってきた。 高野線の「堺東駅」に着いてすぐ、市役所に行った。市役所展望台からの眺めがすばらしいと聞いていたからだ。市街地はもちろん、古墳群や港まで見え、堺の概要をつかむにはぴったりの場所である。 展望台にボランティアガイドがいたので、「与謝野晶子の生家跡と山口家(豪商)と千利休の屋敷家跡を見たい。できれば晶子の銅像も」と頼んでみた。 「銅像は少し離れていますから自分で行ってください」と言いながらも、希望の場所を要領よく案内してくれた。 堺は、大阪夏の陣で焼け野原になり、自治都市の面影はほとんどない。太平洋戦争でもやられているので、「○○跡」が多い。でもガイドがエピソードを話してくれたおかげで、○○跡も十分しむことができた。 鳳晶子は、1878(明治10)年に堺の老舗和菓子屋「駿河屋」の3女に生まれた。左の絵は生家跡のパネルを写したものだが、角地に建つ大きな店だったことが分かる。今は跡形もなく、碑とパネルがあるだけだ。 「あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも、 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや」は、日露戦争の旅順攻撃に参戦していた弟を案じた歌だ。 旅順攻撃の無謀な戦いは「坂の上の雲」にも詳しいが、弟は姉の思いが通じたためかどうか、無事に生還して駿河屋を継いだ。「なぜこんな老舗が無くなってしまったのですか?」と聞いてみた。「堺は茶を嗜む人が多いから和菓子屋が多いんですけどね。廃業したんでしょうかね」と、はっきりしない。 堺女学校(今の府立泉陽高校)の頃には、源氏物語など古典を読みはじめた。左写真の歌は、生家跡に立つ石碑「海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家」。 今この地に立っても潮の遠鳴りは聞こえないが、人工的な騒音が少なかった当時は、聞こえたのだろう。 女学校卒業後は店の手伝いのかたわら、和歌を作りはじめた。そんなとき、歌会で与謝野鉄幹に出会い、東京で暮らし始めた。鉄幹には妻子がいたので、いわゆる不倫関係だったが、宇智子さんが5女であるように、12人もの子供に恵まれた。亡くなったのは1942年。東京の多磨霊園で眠っている。 「晶子は駆け落ちで東京に出たので、地元では評判が悪かったそうですよ。有名になっても、堺女学校では卒業生として認めなかったと聞いています。生家跡がこんなふうに整備されたのも、そう古いことではないんです」とガイドが話してくれた。「最近の堺は以前ほど産業が盛んでありません。だから観光に力を入れるようになったのです」とも付け加えた。 上の銅像は、南海線の「堺駅」前の広場にある。1998年、生誕120年記念に建てられた。だれもが知っている歌人にしては、遅い建立だと思うが、堺での彼女の評判がよくなかったからだろう。 ところでこの旅から数か月後の8月に、天橋立など丹後半島めぐりをしたときに、京都府与謝郡与謝野町を通った。「鉄幹と関係あるのかしら」とふと思ったので、帰ってから調べてみた。やっぱり関係あった。 与謝野町は、鉄幹の父・細見礼厳の出身地。京都に出た僧侶の父は与謝野町出身と言うことで、明治の初めころから、与謝野を名乗るようになったのだという。だから旅は面白い。なにげない発見があるものだ。 最後に、堺中心部のみどころを簡単に。
(2011年12月11日 記) 感想を書いてくださると嬉しいな→ 銅像めぐり1へ ホームへ |