小学生の時に仁徳天皇陵の写真(左は絵はがき)を見て以来、本物を見たいと思い続けていたが、なぜかチャンスがなく、長年の願いがかなったのは、2004年の9月だった。 この前方後円墳は、世界3大古墳のひとつと言われる。他の2つ、エジプト・クフ王のピラミッドと中国・秦の始皇帝陵は見ているのだから、遅きに失した感はある。 7時ちょっと前の「ひかり号」で新横浜を出発し、大阪府堺市のJR百舌鳥駅に着いたのは10時半頃。こんなに短時間で着くならもっと早く来れば良かった。百舌鳥駅(右)は、日本でいちばん大きい古墳に近い駅だから、大きい駅だと勝手に思いこんでいたが、ロッカーもない小さな駅だった。 仁徳天皇陵は、駅から5分ほど歩いた所にある。宮内庁管轄の他の陵と同じく、鳥居と柵が前面にあり(右)、ここからは単なる森にしか見えない。 全景が見渡せる展望台でもあるかと思ったが、それは私の無知以外の何ものでもなかった。JR阪和線すら、低い場所を通っている。高見の見物ができるわけはないのだ。恐れ多くも、天皇陵の上からの見物など、もっての他だった。 看板には、「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」と、宮内庁の名で記されている(左)。 ところが、学者の間では「仁徳天皇が葬られている可能性は、古墳造営の時期からみてあり得ない」が常識になっている。常識がまかり通らない雰囲気が、日本にあるということだ。ただし、ほとんどの教科書では、写真の説明は大仙古墳(伝仁徳天皇陵)となっている。 近所にお住まいの考古学者も、「この古墳の副葬品と仁徳天皇では、時代があいません。天皇陵の発掘は許可が下りませんが、陪塚が発掘できるので、時代が推定出来るのです」と説明してくれた。「では誰が埋葬されているのですか」と聞いてみた。「まだ、はっきしりしていませんが、仁徳天皇でないことは確かです」という事だった。天皇陵発掘が許される日は、来るのだろうか。 説明してくれたガイドに、「仁徳天皇陵ではないと言われていますが・・」とつっこみを入れたかったが、一生懸命ボランティアで説明してくれる人を憤慨させる気はない。黙って聞いていた。 誰が埋葬されているとしても、古墳時代に、かくも美しい形をした巨大な古墳が造営されたことは事実なのだ。アスカの地上絵が謎であるように、空から指示したとしか思えない前方後円墳の作り方も、私には謎だ。当時の土木技術は、相当高かったに違いない。 古墳を一周できる歩道がある。大きさを実感するには、歩くしかないので、気の進まないKちゃんを促して回ってみた。2850bはたいした距離ではないが、「あら!こんな所にラブホテルがある」など言いながら歩いたら、40分ぐらいかかった。 仁徳陵が、百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかのみささぎ)と言われるのは、この辺りが百舌鳥野と呼ばれていたからだ。
Gはニサンザイ古墳(堺) Iは作山古墳(総社)となっている。 Gが2つあるのは全長が同じ290bだから。この地図では省いたが、右下にニサンザイ古墳がある。百舌鳥古墳群には、大きさベスト10のうち3つも入っている。聖徳太子が、薄葬令を出したので、大きな古墳はすべて聖徳太子以前のもの。 私たちは先を急ぐ旅だったので、仁徳陵しか見なかったが、1日あれば百舌鳥古墳群のすべてを回ることはできそうだ。古市古墳群にも行ってみたい。ちょっと囓り出すと、また疑問が出てくる。こうした繰り返しで、日本史ウオーキングは、いつになったら現代までたどりつけるか心細い限りだが、そのために「元気でいようね」と、友達と言い合っている。(2006年9月8日 記) 感想や間違いをお寄せ下さいね→ 日本史ウオーキング1へ 次(天皇陵)へ ホームへ |