91回 2013年5月の連休のさなか、広尾から六本木周辺を歩いてきた。広尾は大使館が多い街として知られる。六本木には、六本木ヒルズ、新国立美術館、ミッドタウンなど、オシャレな高層ビルが林立。外国の街ごとき雰囲気がある一方、江戸時代の史跡もたくさん残っている。大名の下屋敷が多かったからだろう。 広尾駅のすぐ近くにある有栖川宮記念公園も、江戸時代は盛岡(南部)藩の下屋敷だった。そこで、有栖川宮熾仁親王の騎馬像(左)に出会った。 明治29年に有栖川宮の御用地になったが、有栖川宮家が断絶したので、大正2年に高松宮の御用地に。高松宮が昭和9年に東京市にゆずり、公園として整備された。 有栖川宮の名前がついている公園だから、銅像もあるだろうの目論見はあたった。でも、最初からここにあったのではなく、昭和37(1962)年に三宅坂の旧参謀本部から移された。 説明には「大熊氏広の代表作で、明治36(1903)年作」とあった。日清戦争で勝利、日露戦争開戦まじか。軍国主義への道を歩んでいた当時は、こういう勇ましい銅像が多い。 それはともかく、細部の細やかさなど芸術性を感じる。 有栖川宮熾仁は、天保6(1835)年に生まれ、明治28(1895)年に亡くなった。江戸時代が続いていたならば、皇族としてある意味、のんびりと過ごせたかもしれない。 でも、時は幕末の変革期。孝明天皇の妹・皇女和宮と婚約していたが、公武合体の政策のもと、和宮は将軍家茂に嫁がされた。そして皮肉にも、和宮が嫁いだ江戸幕府を完全に制圧する役をになったのが、有栖川熾仁親王。「宮さん宮さん」の歌の宮さんは、有栖川熾仁親王のことである。 婚約が反故になったうえに、元婚約者のいる江戸城明け渡しの約を担わされた親王は、和宮と共に「悲恋のヒーローヒロイン」として、たくさんの時代小説で取り上げられた。よくありがちな、お家同士の婚約だったろうから、本人たちは悲恋などとは思ってなかったような気もするが、小説としては面白い。 その後、最後の将軍徳川慶喜の妹・貞子と結婚する。考えてみると、これも皮肉な結婚だ。幕府に最後の引導を渡した東征大総督だった親王の結婚相手が、こともあろうに、徳川家のお姫さま。でも新妻は、熾仁親王が福岡県知事として赴任中に23歳で病死してしまった。 のちに、新発田藩主だった溝口氏の娘・薫子と再婚。2012年秋に新潟県の新発田城を訪ねた。 新発田については、藩主が誰かも知らず、忠臣蔵の堀部安兵衛の出身地程度の知識しかなかったが、ここで結びついた。まったく関連なさそうな有栖川宮記念公園と新発田城が繋がりがあったことを知り、ちょっと嬉しかった。 熾仁親王夫妻にも異母弟にも跡継ぎがなく、有栖川家は断絶。ご用地は、大正2年に有栖川家の祭祀を引き継いだ高松宮が継承した。盛岡藩の下屋敷→有栖川宮家のご用地→高松宮ご用地→東京市と変遷していった。今の管轄は東京都港区。この変遷を知るだけでも面白いが、そんな歴史を知らなくてもただ歩くだけで、心が癒される。すぐ側に六本木ヒルズがあることを忘れそうな緑に恵まれている。
ところで、有栖川熾仁親王といえば、歴史的には幕末時の動きが有名だが、明治天皇からも絶大な信頼があり、もともと長州藩のシンパだったこともあり、新政府でも活躍した。兵部卿、福岡県知事、元老院議長、鹿児島県逆徒征伐総督、陸軍大将など。 |