イギリスの旅2 
 セント・アンドリューズとインバネス

2014年8月8日(金)-3日目

エジンバラから北85qにあるセント・アンドリューズイギリスの旅1の地図参照)に向かった。ゴルフ場で有名だが、セント・アンドリューズという市があることを初めて知った。聖アンドリューズはキリスト12使徒のひとりで、スコットランドの守護聖人。4世紀頃にギリシャの修道士が遺骨を運んだことから、聖地になった。スコットランド国旗の青地に白い斜め十字は、聖アンドリューズが斜め十字架で磔にされたからだという。

「12使徒にアンドリューズなんていたかな」と考えながら綴りをみるとAndrew。そうか!ペテロの兄弟のアンデレのことか。ペテロが国によってピーターやピエトロと発音されるのと同様に、アンデレは英語ではアンドリューになる。誕生のころ、使徒との出会い、ゴルゴダの丘で磔になるまでのイエスの一生は書物で読んでいる。ゴルゴダの丘にも行った。それだけに、アンドリューとアンドレが同一人物と知ったのは発見だった。

まず聖アンドリューズ大聖堂へ。スコットランドの宗教の中心だったが、16世紀の宗教改革でほとんど壊されてしまった。アイルランドに行ったときに、破壊された教会を数多く見たが、スコットランドでも同じようなことが起こっている。近くにある聖アンドリューズ大学は、ウイリアム王子とキャサリン妃の出身大学。日本の皇室では、首都圏以外の大学に通うなど聞いたこともない。

当初はゴルフ博物館を見学する予定だったが、「オールドコース」の見学に変わった。夫や娘が楽しんでいるゴルフを、私はテレビ以外では見たことがない。一度はコースを見たいと思っていたので、オールドであろうと全英オープンのゴルフ場を見学できると聞き、嬉しかった。「オールドだから古くて正式には使ってないのだろう」と勝手に解釈していたが、使ってないどころかもっとも由緒あるコースだった。スコットランド一の有名女王メアリーもプレーした。とんだ思い違いをしていたことになる。

オールドコース オールドコース オールドコース
 
全英オープンが行われる
オールドコース
石橋のところで記念撮影する
 
オールドコースの18番ホール
この日プレーしている人は
シニアばかりだった

 
愛想よく案内してくれた
元国内のチャンピオン


元チャンピオンのガイドが一緒にまわって説明してくれた。「インターナショナルのチャンピオンだったの?」との私のぶしつけな質問に「いや、国内のだよ。5歳からプレーしてるから」と愛想よく答えてくれた。

このコースには柵などない。「僕なんかこんな所ではできないな。車や家の窓にボールが飛んでいくかもしれないと思うと、とてもできない」と夫は言っていた。でも帰国後に夫がある会合でこの話をしたら、ここでプレーした日本人は何人もいた。

柵がないどころか、プレー中なのに見学者はコース内に入ることができる。このコースは両側からプレーをするので、ぶつかる可能性もある。そんな複雑なコースを、プレーしたこともがない私がのこのこ歩き回って写真を撮っている。18番ホールに向かう前の石橋は、記念すべき橋だとか。プレーヤーはこの橋で記念写真を撮っていた。同行者のほとんどは撮っていたが、私は撮らない。プレーしたこともないのに恥ずかしい。

ちなみに、ここにはオールド、ニュー、ジュビリー(この3つは中級から上級向け)、イーデン、ストラスタイラム(この2つは初級から中級向け)とバルゴー(初心者と子供用)の6コースがある。かなり狭い範囲に6つも収まっていることにも驚いた。

とにもかくにも、セント・アンドリューズゴルフ場は、名前がペテロの兄弟の名からきていることと、初めてゴルフコースに入ったという2つの点で、久しぶりに興奮した見学になった。40年前にロンドンに赴任していた友人は「私たちはcolored peopleとして、差別されたのよ。主人たち日本人が使えるゴルフ場は限られていた」と話していた。いつごろから、セント・アンドリューズで日本人がプレーできるようになったのだろう。

スコットランドが独立したら、セント・アンドリュースでの全英オープンはどうなるのか心配したが、杞憂に終わった。

漱石が泊まったホテル1時間半ほど北上して、夏目漱石が1903年に滞在したダンダラックホテルで昼食をとった。ロンドンでは鬱病状態でしかもお金に困っていたと聞くが、こんなに遠くまで保養にくる余裕があったのだ。漱石の写真や浮世絵(左)などがロビーに飾ってあった。

昼食をとったホテルのすぐ近くにあるブレア城(左下)に寄った。1269年の建立というが、白い外観からは古さは感じない。内部にはヨーロッパの城でよく見る狩猟の成果が誇らしげに飾ってあった。ここは鹿の角が芸術的に飾ってあった。今も続くアリル公爵家の所有。


ブレア城昭和天皇は、皇太子の時に青の寝室に宿泊したそうだ。昭和天皇の回顧録には、若い時のヨーロッパの旅が非常に楽しかったという記述がある。のびのびと良い旅をなさったのだろうなと想像する。

ブレア城を出て約2時間後の夕方6時頃、更に北にあるインバネスのホテルに着いた。

     <インバネスのメルキュール泊>


8月9日(土)−4日目

インバネスコートインバネスイギリスの旅1の地図参照)は、スコットランドの北部にある。ここを訪れる日本の旅行者はめったにないと思うほどの僻地だが、2泊もする。インバネスというコートは日本の小説で知った。シャーロックホームズが着ていたコートだ。祖父の写真でも見たような気がする。でも同行者の誰もが「そんなコート知らない」という。

持参のタブレットで調べたら「スコットランド北部の地名からとった袖のあるケープ付きの外套。明治に輸入され和装用コートして流行った」とある。左写真はウィキペディアから借用。

インバネスは漱石が滞在していたホテルからも近い。もしかしたら、コートの連想でこんな北部を訪れたのかなと勝手に想像する。

ホテルからウィスキー蒸留所に向かう車窓には、畑らしきものはない。高い山もなくなだらかな丘の荒野が続く。ピンクのヤナギランが路傍を彩っているが、ときどきヒースの群生も見えた。ヒースは「嵐が丘」を読んだ時から見たかった。去年、アイルランドでも見たが少し時期が早かったが、今回は最盛期。ツツジ科で南アフリカが原産だという。

スコッチウィスキーの本場だけあり、ウィスキーの蒸留所がたくさんある。そのうちのひとつグレンフィディック蒸留所を見学。このウィスキーは日本でも売っている。ボトルの形が独特なので酒に興味がない私でも知っている。

「ウィスキーをよく飲んでいる人いますか」とガイドの女性が聞いた。夫が手を挙げて「安物ですが」と言ったら、「グレンフィディック試飲したら、安物は飲めなくなりますよ」と笑いながら即答した。

大麦を発芽させてモルトにして発酵、熟成させる工程を回りながら説明してくれた。泉の湧水を使っている事、ステンレスの樽ではなく、樫の木の樽を使っていることが自慢らしい。1887年の創業以来、同じ家族が経営していることもご自慢のようだ。

グレンフィディック蒸留所 グレンフィディック蒸留所 グレンフィディック蒸留所
 
グレンフィディック蒸留所
 
説明してくれたガイド嬢
 
タータン姿の従業員

世界で初めて、1963年にグレンフィディックが、シングルモルトを発売したそうだ。シングルモルトは「麦芽原料を使って仕込み発酵して蒸溜した原酒だけをブレンドしてつくり上げたウィスキー」を言う。今は日本のサントリーでも作っている。帰国後、サントリーの白州蒸留所を見学した。

最後に3種類(12年物、15年物、18年物)の試飲コーナーがあり、かなりの量をついでくれたが、飲めないので他の人にあげた。

コーダー城1時間ほど移動してコーダー城(左)に着いた。この城が作られたのは14世紀。この一帯の領主コーダー家の居城。オンシーズンは開放しているが、冬にはコーダー伯爵が実際に住んでいる。跳ね橋を渡って城内に入る。日本の城にもお濠に木製の橋が架けられていることが多い。考えることは東西同じだ。

この城はシェークスピアの「マクベス」の舞台になった。マクベスは11世紀の王なので、まだコーダー城はない。シェークスピアがコーダー城を舞台に使ったことで、史実とは違うが有名になった。古びた石造りの城は、オドロオドロした話にぴったりのような気もする。隣接している庭園が見事だった。自然に草花が育っていて、いかにもイングリッシュガーデン。

コーダー城の近くにあるカローデンの古戦場に行った。日本の古戦場すら全部を網羅しているわけではない。「カローデンの古戦場など聞いたこともないな」と思いながら、渋々と荒野の見学に出発。日本語のガイドレシーバーを聞きなら歩き回った。説明を聞いて分かったのだが、スコットランド人にとっては、思入れが深い有名な古戦場だった。

ビジネスセンターの切符売り場には英語の「please pay here」の上に、ゲール語の表記があった。スコットランド本来の言葉であるゲール語が、上に書いてある。統合前はスコットランドとイングランドでは言語も人種も違っていた。人種はスコットランドがケルト、イングランドがアングロサクソン。

「ゲール語話せるの」と受付の若い女性に聞いたら「私は分からない。彼は話せる」と同僚の若い男性を指さした。ゲール語で話してくれたが、もちろん分からない。今はほとんどのスコットランド人は、ゲール語がわからないそうだ。アイルランドでも分かる人は限られていた。

カローデン古戦場カローデンの戦いは、1746年4月12日、わずか30分で決着がついた戦い。スコットランドの独立を目指すジャコバイト軍(チャールズ2世の孫が率いた)4万人とイングランド政府軍(国王ジョージ2世の息子が率いた)7万人の戦い。イングランドとスコットランドはすでに1707年に統合しているので、最後のあがきみたいなものだ。この戦いでジャコバイト軍は壊滅。これ以後、スコットランドに対するイングランドの支配がより強くなった。

この日は曇り空、こんな天気の時に見る戦場(左)は、あまりにも寂しい。スコットランド人の恨みが籠っているようにも感じた。今回の独立の動きには、こういう歴史的背景もある。

夕方5時半ころには、インバネスのホテルに戻ってきた。ホテルは中心街にあり、散歩するには良い。ネス川にも近い。インバネス城も近い。

ネス川インバネス城は、古い要塞があったところに1835年に今ある建物が作られた。閉まっていたので外観だけを見た。ここからのネス川と市街地の景色がいい(左)。

まだ時間が余っているので、インバネスの鉄道駅に行ってみた。さすが鉄道発祥の国だけあり、鉄道は健在のようだ。ヨーロッパの駅には改札口がなく、プラットフォームに簡単に入れる所が多いが、この駅には改札口があった。  <インバネスのメルキュール泊>

         (2015年12月2日 記)


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