ギリシャの旅 


2013年12月20日(金)〜26日(木) 


アテネ市内
メテオラとデルフィ
エーゲ海一日クルーズと食事


ギリシャの旅1
  アテネ市内

2013年1
2月20日(金)-1日目

ギリシャは、中学生のころから憧れの国だった。アテネだけはエーゲ海クルーズの旅のときに見物したが、他の地には行ってない。こんなとき、短いけれど、ビジネスクラスで行くギリシャの旅という格安ツアーがあった。寒い時期だし、全部を網羅していないので安いのだと思うが、行ける時に行っておかねば後悔する。ということで出発。

ギリシャ地図コースは左地図のように、トルコのイスタンブールからアテネに入国する。
訪問地も数か所だけだが、メテオラが入っているのでよしとしょう。


12時55分(成田発)→トルコ航空で18時10分(イスタンブール着)
     
飛行時間は12時間15分

1915分(イスタンブール発)→トルコ航空で2040分(アテネ着飛行時間は1時間25分

車窓からの観察にすぎないが、アテネ市内はクリスマスシーズンだというのにまったく華やかさは感じられない。ヨーロッパのクリスマスはきれいだと聞いているが、拍子抜けするほど地味なイルミばかりだ。ギリシャが財政破綻しているからなのか、正教の飾りはこんなものなのかよく分からない。キリスト教国でもない日本のイルミネーションの派手さに馴染まない私は、むしろ心地よい。ホテルはカライスカキ広場に面した割と便利な場所にあるが、このホテルは1泊するだけだ。   <アテネのスタンレー泊>

12月21日(土)-2日目 

茜色のパルテノン神殿ホテルの9階テラスから市街が見えると聞き、出発前に行ってみた。朝8時頃だとまだ薄暗いが、茜色の空にアクロポリスの丘が浮かんで見えた。工事中のクレーン車が見え、優美には程遠い(左)。

8時半に出発。ヴァッソさんという中年のガイドがア車中でギリシャの概要を話してくれた。初めてアテネに来たのは14年も前。忘れていることも多かったし、その後の変化が少しわかった。

ギリシャの面積は日本の3分1。人口は約1000万人で東京より少ない。優秀な人材が他の国に流出しているとも聞いている。ますます人口が減るのかもしれない。ヴァッソさんは「ヨーロッパでいちばん給料が悪い」と話していたが、「ヨーロッパの最貧国はモルドバ」と聞いたばかりだ。EU加盟国のなかでの最貧国ということなのだろうと勝手に解釈した。

牛肉が1s1200円だから、給料が低くてもそれなりの生活は出来るのだろう。この感覚で言うと、土産物は高い。ピスタチオや蜂蜜やアーモンドの菓子などを買ったが、さほど安くはなかった。観光で成り立っている国だから、観光客からぼったくって生計を立てているような気もする。

衛兵まずアテネのヘソと言われるシンタグマ広場で下車。「死んだ熊」と覚えたことを思い出す。シンタグマは憲法という意味。ギリシャは1443年から1830年までトルコに支配されていたが、独立後、自国の憲法を1834年に発布したことにちなむ。

広場の国会議事堂の下には、独立戦争の戦死者が眠っている無名戦士の碑がある。それを守っている衛兵は観光客の人気者。1時間交代で一日に6回立つ。合計6時間は身じろぎひとつできない(左)。

今回聞いたのだが、立っているのは昼間ばかりでない。24時間ずっと無名戦士を守っているそうだ。無駄じゃないのかなあと思うが、他国の人間がとやかく言う事でもない。

アテネ競技場次はアテネ競技場。1896年の第1回近代オリンピックのメイン競技場だ。132年に、ハドリアヌス帝が開催したアドリアナオリンピア会場として使われたというから歴史は古い。1869年に発掘され、古代の競技場に近い形で復元されたものだ。

14年前は競技場の中に自由に入れた。トラックでダッシュしたりして楽しんだが、今は3ユーロが必要とのこと。外から眺めただけで終わった。ちなみに2004年のオリンピックのメイン会場は別なところだが、野口みずきが金メダルをとったマラソンのゴールはこの競技場だった。ギリシャのマラトンから42.195qとのこと。

今日のハイライトであるアクロポリスへ向かう。アクロはギリシャ語で高いという意味だから、もちろん高台にある。アテネを歩き回ればすぐ分かることだが、どこからでもアクロポリスは見える。アクロポリスを覆い隠すような高層ビルを制限しているらしい。経済が破たんしているので、その需要がないような気もする。

まずアティスコ音楽堂を見学。161年にアテネ市民のアティスコが市に寄贈した。当時から5000人も収容できた。今もコンサートやオペラが行われ、日本の芸術家もこの舞台に立っているそうだ。こういう劇場はあちこちで見た。古代劇場に行くたびに、下から上まで階段を上って上からの景色を見ているが、ここは見学させてないようだ。


アティスコ音楽堂 パルテノン神殿
 
アクロポリスにある
アティスコ音楽堂では今でも使われている

 
パルテノン神殿はまだ工事中
でもネームバリューはさすが


いよいよアクロポリスに入る。フランス人のブーレエが発掘したことからこの名があるブーレエの門を入り、続くプロピーレア門をくぐるとパルテノン神殿が目に入ってくる。14年前に来た時も工事中だったが、今もまだ無惨な姿をさらしている。以前よりももっと鉄骨が目立つような気がする。

パルテノン神殿に憧れを持った日本人は多い。小中学生の頃に歴史の教科書や美術の教科書で目にしていたパルテノン神殿はほんとうに美しかった。ギリシャ神殿も珍しい、イオニア式柱も珍しい、エンタシスという不思議な響きにも魅了された。

想像していた神殿と、現実の神殿のあまりの落差は、歴史を考えれば無理もない。中世にはキリスト教会、トルコに支配されていた時代にはモスクだった。トルコ軍の弾薬庫として使われたこともある。大英博物館の目玉がパルテノン神殿のエルギンマーブルであるように、彫刻類はイギリスなどに持ち去られている。

と言いながらも、ここアクロポリスの丘を訪ねたのは3度目だ。前にきたときは午前に団体で見学、午後には個人で再入場した。ギリシャやローマの町の遺跡はあちこちで見たが、なんといってもアテネのアクロポリス。そのネームバリューはたいしたものだ。

前回来た時も古代アゴラの付近を歩き回りたいと思ったが今回もかなわなかった。丘の上からアタロスの柱廊を見ただけに終わった。1953年に再建された柱廊だから、残念に思わなくてもいいのだが、もうアテネにくることはないだろう。アゴラを歩きたかった。

アクロポリスの丘を降りてプラカ地区に向かう途中、ゼウス神殿とハドリアヌスの門を見学。ゼウス神殿はBC515年に着工。今は15本が残るだけだが、かつては104本の柱だった。コリント式柱はギリシャではここしかない。アカンサスの葉の彫ってあるコリント式柱で、あちこちの国で見た。なのに、ギリシャ全土でここしかないというのは意外だった。ハドリアヌスの門は、2世紀にハドリアヌス帝のために建てられた。アクロポリスとハドリアヌスの都を分けている門だった。

プラカ地区 プラカ地区

プラカ地区は
アクロポリスの真下にある
 
 
プラカ地区のタベルナ
(大衆的なレストラン)
 
プラカ地区には
荒れ放題のビルがたくさんある


昼食はアクロポリスの麓にあるプラカ地区。レストランとタベルナとショップが並んでいて、観光客で賑わっている。タベルナは、レストランより格式が低い食堂のこと。タベルナをパソコンに入れると「食べるな」と出る。日本語と現地語のミスマッチはたくさんあるが、これも面白い。

観光客が集まる地域というのに、かつては立派だったろう邸が朽ちかけていたり、全体がうらびれている。夜にひとりで歩いたら怖いのかもしれないが、昼間は怖さは感じない。

今日のランチメニューは、ギリシャ風サラダ・ムサカ・デザート。ムサカはギリシャの名物料理で、ナスやジャガイモ、ひき肉を重ねてオーブンで焼いたもの。ギリシャの食事でいちばん美味しかったのは、朝食のブッフェのヨーグルト。濃厚でいてくせがなく、とにかく美味しい。ギリシャ名物の蜂蜜をたっぷりかける。これだけで幸せな気分になる。
料理の写真は最後の頁にまとめて載せるつもり。

昼食後、今日の宿泊地カランバカ(上の地図参照)に向かう。アテネからカランバカまで355q。トイレ休憩が数回あったものの、およそ6時間もかかった。                    <カランバカのメテオラ泊>

                                                (2015年1月16日 記)

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