ブツブツひとりごと  26回

  カリフォルニア大学の図書館その3 (北山田だより304号 2013年7月号より抜粋)

カリフォルニア大学の図書館で見つかった開原榮著「故国に帰ってから」の続きです。開原さんは新聞記者。13年ぶりの日本を、鋭くそして温かく綴っています。

中央新聞の若宮卯之助氏が「若し本書にして後世歴史家の為めに保存される機會を得たならば、明治大正時代の日本人の気分を参照すべき、一種特異の材料と為るのであろう」と序文を寄せています。100年前の日本、特に東京の人間模様は、歴史の教科書や専門書ではとても得られない記述。

中央新聞なぞ聞いたことがないので、調べてみました。「1891(明治24)年から1940(昭和15)年まで東京で発行された新聞。立憲政友会の機関紙」とありました。立憲政友会は初代の総理大臣・伊藤博文が作った政党で、ほとんど第1党の地位にありました。

だから中央新聞は、今でいえば、自民党の機関紙みたいなものですね。昭和15年に政党が解散させられたので、政友会も解散。同時に新聞もなくなりました。昭和15年は皇紀2600年。すべての政党や団体をひとつにまとめた大政翼賛会が発足。太平洋戦争が間近かに迫っていた年です。

祖父・加藤英重は、開原さんと共に、中央新聞の若宮さん、萬朝報(大隈内閣の機関紙)の佐藤さん、中央公論の女性記者上山さんらと、酒を酌みかわしています。こんな場にいたジイサマは楽しかったんだろうな。

政党が解散させられた時代と違って、時は大正デモクラシー、憲兵におびえることもなく、政治を皮肉るなど勝手なことをしゃべりまくっていた宴席を想像するだけで、孫の私はウキウキ。祖父との血がつながりを感じてしまいます。

左は、東京の街の変化を記した部分です。今やスカイツリーと並んで東京の注目スポットになっている丸の内。100年前の丸の内の部分を抜粋してみました。

「晝でも人殺しの多かったあの三菱ヶ原邊」と出てきますが、開原さんが渡米する前は、本当に寂しい場所だったようですね。それは他の資料でもはっきりしています。

太田道灌が江戸城を建てた頃、今の丸の内一帯は日比谷入江と言われた海。1590年に徳川家康が江戸に居を構えるや、入江を埋め立て新たに外堀を作りました。以前の外堀が内堀になり、間の土地が丸の内と呼ばれました。江戸時代には親藩や譜代大名の藩邸が24もあり、時代劇でお馴染みの町奉行や評定所があった所です。

明治維新後は官有地になり、陸軍の兵舎や練兵場に。その後、陸軍が移転し、1890(明治23)年に三菱の岩崎弥之助に150万円で払い下げられました。三菱グループ発展のもとになったと言われる国有地払い下げです。

開原さんが渡米する前の丸の内は、陸軍が撤退した後。人殺しが多かったことが誇張でないほどの野原でした。今の繁栄を思うと夢のようですね。

1894(明治27)年に三菱1号館竣工に続き、ロンドンの真似をした赤煉瓦街が次々に建てられ、一丁倫敦と言われるようになったそうです。今でも三菱グループのオフィスが多いのはこのためです。その三菱1号館は40数年前に解体、2009年に三菱1号館美術館として再建されました。美術館に隣接する歴史資料室(無料)では、丸の内の変遷を見ることができますよ。

「東洋第一の稱ある東京驛」とありますが、この東京驛は1914(大正3)年建立のもの。三河の吉田藩と松本藩の藩邸跡に建てられました。東京駅完成の2年後に来日した開原さんの驚いた顔が見えるようです。

当時、開原さんが住んでいたアメリカのサクラメントは、西部劇の雰囲気を残していたように思います。ボストンなどの東部と違って重厚なレンガ造りはなかったのかもしれません。調べてみようとは思っています。サクラメントに行きたいな。

第2次大戦で被害を受けた東京駅が復元されたのは、去年のことでした。現在も丸の内の再開発は完成したわけではなく、東京駅の改修に続き、今年も「KITTE(キッテ)」という日本郵便の商業施設が完成、そこのレストランは予約が大変だと聞きました。それだけ、注目スポットなんですね。

抜粋に出てくる神田の須田町は今もありますが、繁華街ではありません。「検索」で、「かつては市電の一大ターミナルで、万世橋との乗り換え地点として繁華な場所」だったことが分かりました。どっちみち、私が東京に居を構えたころは、都電さえ消えかかっていました。ましてや市電のターミナルなど分かるはずもありません。

左は、前頁抜粋の続きですが、東京は何處も賑わっているとあります。浅草は俗受けする場所、上品な賑はいは銀座から日本橋。100年後の今も、その棲み分けは変わらないような気がします。もっとも今の銀座は、上品とは言えないですね。安売りの店やチェーン店が大きな顔をしてますから。

当時は「三越や白木屋は男でも一度は覗いて見て置くべき」ほどの価値があったのですねえ。白木屋は、昭和40年頃に東急百貨店日本橋店に。それも閉店。今は「コレド日本橋」になっています。パンツをはいていなかった女店員が飛び降りることを躊躇して焼け死んだ「白木屋の火事」は、女性の服装の見直しにもなった事件。ひとつの歴史が消えました。

今や伊勢丹の傘下に入った三越は、アメリカとの商売から足を洗ったジイサマが、出版業などを経たのちに、定年まで勤務していた百貨店。三越の衰退は、私にも少し寂しいです。「大正も昭和も遠くになりにけり」。その4に続きます。

     (2013年8月9日 記)



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