インドの旅10
 タージマハルなどイスラム建築の傑作

2008年11月17日(月)−10日目

「インドといえばタージマハル」と言われるほどタージマハルは有名だ。いよいよ、今日はそのタージマハルを見学する。真ん前まではバスが乗り入れできず、途中で電気自動車に乗り換えた。タージマハルの白い大理石の汚れが、目立つようになったからだという。

あまりにも写真や映像で見慣れているせいか、正直なところ「あ〜」ぐらいしか言葉が出なかった。あいにく今日に限って、もやっている。青空に映える白い大理石、池に映るタージマハルを心に描いていたのだが、絵はがき的写真すら撮れなかった。

タージマハル正面 タージマハル壁 モスクから見たタージマハル
タージマハル正面。今日はもやっていた。 外壁はこのようにイスラムの幾何学模様が彫ってある。 モスクから見たタージマハル。人が少なくて穴場。

ムガール帝国5代目皇帝のシャー・ジャハンが、最愛の妃ムムターズ・マハルのために22年もかけて1654年に作った廟である。ムムターズがなまってタージになったらしい。ムムターズの遺言が「私のために世界1の墓を作って」。それを忠実に守ったがために、莫大な費用を使い国は疲弊してしまった。

 皇帝シャー・ジャハンは息子の手でアグラ城に幽閉されてしまう。晩年は、幽閉された部屋からタージマハルを眺めて暮らした。こういう話を聞くと、人間はどうして愚かなことを繰り返すのだろうと思う。

もっともこの愚かさのおかげで、私たちは最高のイスラム建築を堪能できるのだから皮肉なものだ。建物が80bで4本のミナレットは40b。完全なシンメトリーの建物は文句なしに美しい。全景を見ただけではわかりにくいが、近寄ってみると幾何学模様が細かく彫ってある。色彩はほとんど使われていないが、それだけに美しさが際だつように思う。

 建物に入るには、裸足になるか、靴にカバーをかけねばならない。道で用足しをしても平気なほど衛生観念が欠如している国のやることとは思えないが、電気自動車といい、靴カバーといい、大事な観光資源を汚くすることだけは避けねばならないとの強い思いはあるようだ。

タージマハルの左側にモスクがあった。タージマハルはお墓だから、お祈りの場は他にある。このモスクは人が少なくて穴場だ。モスクの内部から見る正面左側のタージマハルは、ゆっくり眺めただけに印象に残った。

タージマハルから少し離れたヤムナー河沿いにアグラ城がある。この城はタージマハルより古い1566年に3代目の皇帝アクバルによって築かれた。4代目皇帝ジャハンギールが赤い砂岩と大理石で増築、5代目皇帝シャー・ジャハンが大理石で仕上げた。強固な城壁は6代目皇帝アウラングゼーブが築いた。ムガール帝国の皇帝が、権力を誇示しただけのことはある壮大な城だ。

アグラ城外観 アグラ城内部 アグラ城壁
アグラ城外観 アグラ城内部 アグラ城の幾何学模様のタイル

それぞれの皇帝の宮殿など見学した中で記憶に残っているのは、シャー・ジャハンが息子の手で幽閉されていた部屋。囚われの塔と言われるその部屋からは、もやっている今日でも、タージマハルが見える。愛するムムターズが眠る廟だ。シャー・ジャハンはタージマハルの対岸に黒い大理石製の自分の廟を建て、両方の廟を橋で結ぶつもりだった。もちろんその前に、息子の手で幽閉されてしまうのだが、心の目では、幻の黒い廟と現実の白い廟の両方を見ていたに違いない。シャー・ジャハンが実際に眠っているのは、タージマハル。妃の隣に申し訳程度に葬られた。

昼食後、ファティプール・シクリーに行った。世継ぎに恵まれなかったアクバルがここに住む聖者の予言で息子を授かったので、恩に報いるために1571年にアグラから40`離れたこの地に都を遷した。しかし夏の暑さと水不足のために14年間住んだだけで、アグラ城に戻った。

 城壁で囲まれた広大な敷地には赤い砂岩で造られて宮廷やモスクが、ほとんど傷みがなく残っている。「建物にはヒンズーとイスラムの融合が見られます」とシャルマさんが丁寧に説明してくれるが、ほとんどが左から右に抜けてしまう。

アクバルは、いろいろな宗教の良いところを集めて新しい宗教を作ろうとした。そのために、いろいろな宗派の女性と結婚した。最初の結婚相手がヒンズー教徒というのがおもしろい。さすがアクバル大帝と言われるだけあり、度量が大きい。結婚相手だけでなく、ヒンズー教徒を積極的に政治に登用するなど両者の融合につとめた。人種の融合をはかろうとしたアクバルにとって、建築様式の融合は自然のことだったと思う。

ファティプールシクリー外観 ファティプールシクリー壁 ファティプールシクリー柱
ファティプールシクリー外観 ファティプールシクリーの壁は幾何学模様 ファティプールシクリーの柱もイスラム風

昨日からフマユーン廟、クトウブ・ミナール、タージマハル、アグラ城、ファティプール・シクリーとイスラム建築の傑作を見続けている。今のインドでは最下層を占めているイスラム勢力が当時は大きな力を持ち、ムガール帝国には富も力もあったことを実感する。

ムガール帝国はインド人の王朝ではなく、モンゴル系やトルコ系の外国人王朝である。奥さんを当時の先進国ペルシャから迎えた皇帝もいるので、さまざまな外国の血が混じっている。

 ティムール帝国の末期に王子として生まれたバーブルが1526年にムガール朝を建てた。その息子2代目がフマユーン、3代目が有名なアクバル。ムガール朝がムガール帝国に発展したのはアクバルの時だ。4代目がジャハンギール。5代目がシャー・ジャハン。彼は息子に幽閉されたこととタージマハル建設ばかりが目立つが、実際は内外の政治に力を注ぎ、シャー・ジャハンの治世は帝国の絶頂期と言われる。

 兄弟を殺し父を幽閉して次の皇帝になったのは6代目アウラングゼーブ。彼の時代に帝国は急速に力を失っていく。彼の死後、帝国領はデリーの周辺だけになった。ムガール帝国が名実ともに滅亡したのは1858年だが、実際にはアウラングゼーブが退いた1707年で終わっている。ムガール帝国は200年も続かなかったことになる。

8世紀に入ってきたイスラム教は、ムガール帝国の衰退と平行して力を失っていく。もっともインドが1947年に独立する前は、イスラム教徒が35%も占めていたから、イスラムは庶民にも浸透していたことになる。

BC5世紀にインドで生まれた仏教は、今はほとんど信者がいない。アショカ王がヒンズー教から仏教に改宗し、次に続く王たちも仏教を保護したので、金持ちや町に住む人には広まった。5世紀ころまでは仏教が隆盛だった。しかし次第に王たちが仏教ではなくヒンズー教を保護するようになり、インドにおける仏教は衰退していく。もし王の保護がなくても、民衆に根付いていれば廃れることはなかったと思う。しかし、農村に住む人々には、仏教など関係なかったのだ。こうしてもともとインドにあったヒンズー教が盛り返し、今にいたっている。

アグラの観光を終え、宿泊地ジャープールに移動。休憩を含め、また4時間半のバス移動。移動時間は無駄のようにも思えるが、ガイドからインド事情を聞けるチャンスでもある。でもバスはエアコンの調整が効かないことが多く、寒すぎて困る。風邪で寝込んだことが1度もない夫が風邪を引いたのは、このせいなのだ。
                           <ジャイプールのクラークス・アメール泊> (2010年9月2日 記)

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