インドの旅


2008年11月8日(土)〜11月20日(木)


エアインディアとムンバイ
エレファント島とヒンズー教
エローラの石窟寺院
アジャンタ石窟寺院・ヒンズー教徒
ビンベトカ壁画とアショカ王の仏塔
カジュラホのヒンズー寺院
カジュラホからベナレスへ
ガンジス河の沐浴と仏教の聖地
ニューデリー
タージマハル
ジャイプール


インドの旅1
 エアインディアとムンバイ

2008年11月8日(土)−1日目

成田集合(10時) 成田発(12時30分)→エアインディアでデリー着(18時35分) デリー発(19日の1時30分)→ムンバイ着(3時30分)→ホテル到着(4時30分

まわったコース広いインドを13日間で回るのは無理があるが、選んだコースは、いちおう、有名な観光地は網羅されている。ムンバイに着き、デリーから帰るルートだった(左)。

 成田を出発するまでは順調な滑り出しだった。モロッコとイスラエルで一緒だったHさん、イスラエルで一緒だったSちゃん、Hさんの長年の友人KさんとYさんに私たち夫婦を含め6人。なにかあっても助けてくれる仲間がいるので心強い。KさんとYさんは初対面だが、会ってすぐ楽しい旅ができそうだと感じさせる弥次さん喜多さんのような2人。「おホモ達」だと、みずから名乗るほど仲がいい。

搭乗機のエアインディアには少し驚いた。スチュワーデスが美人でなくてはならない決まりはないのだが、くたびれはてたような中年女性が多く愛想もない。洗面所も壊れている箇所があり、ペーパーの補充もない。「インドは急成長を遂げている」と耳にしているのに、ナショナルフラッグのこの有様に、少し不安を覚えた。

機内食 パイロットをしている義弟に聞いたのだが、エアインディアのスチュワーデスは、最上級に属しているからプライドが高い。だからそれより下の階層にいるインド人は、エアインディアに乗るのを嫌がるそうだ。機内食(左)は日本製だからそれなりである。

成田からの便はデリーまで。目的地のムンバイに行くには4時間後の乗り継ぎ便しかなかった。4時間でもウンザリなのに、実際には、デリーの空港で7時間も待たされたのだ。

 ムンバイのホテルに到着したのが朝の4時半。日本時間では朝の8時。自宅を出たのが朝の7時半だから、同じアジアの国の1泊目のホテル到着まで24時間以上かかったことになる。インドと日本の時差はわずか3時間半なので「ヨーロッパに行くよりずっと楽だわ」の勝手な思いが、しょっぱなに裏切られたのだった。

コンピュータの故障

デリーの空港での乗り継ぎ手続きは、ノロノロとしていた。4時間もあるからどうでもいいやと暢気に眺めていたが、機械が故障していて発券がうまくいかない(左)。そのうち、手で書き始めた。IT技術者が優秀で、ソフトの開発もすばらしい国と聞いている。その国の首都の空港・デリーでもこうだ。機内で覚えた不安が本物になってきた。

 やっと搭乗してやれやれと思いきや、次の便を予約しているのに「乗せろ」というインド人、「乗せない」というスタッフで大もめ。機長の判断で乗せることになったが、それだけで2時間も費やした。

数日後にガイドのシャルマさんから聞いたのだが、デリーで乗るはずのエアインディアは、関空から香港経由デリー着の便。ところが香港でコンピュータに故障が見つかり、実際には1日遅れでデリー着。私たちが乗ったのは、アラビアから飛んできた飛行機だった。シャルマさんはデリーに家があるが、飛行機代が高いので会社は汽車賃しか出してくれない。列車に16時間も乗って、そのうえ又長いこと待ちわびていたようだ。もっとも彼には、4時間の遅れは驚くような出来事ではないらしい。

わずか数時間滞在のホテルにも正規の料金を払うのか聞きそびれたが、ともかくも1日目は<ムンバイのラミーゲストライン泊>

11月9日(日)-2日目

 8時半には観光に出発。2時間ほどの睡眠にもかかわらず、同行者17名は元気だ。夕方にはアジャンタ石窟のあるアウランガーバードまで飛ぶ。わずかの滞在だが、今思うとムンバイに立ち寄ったのは良かった。帰国6日後にムンバイで大規模なテロが起こり、たくさんの人が「巻き込まれないでよかったね」と言ってくれたのに「ムンバイには行ってないのよ」では拍子抜けされる。

インド門

 まずインド門(左)へ。1911年にイギリスのジョージ5世が訪問したときに作られた。イギリスの植民地だった頃の象徴のような門だが、破壊せずにそのまま置いてある。激しい独立戦争を経ての独立なのに、韓国ほど怨念が深くないのかもしれない。

 インド門広場の向かい側に、横に長い立派なホテルが建っている。これがテロ事件で真っ先に標的にされたタージマハルホテル(左中)だ。インド門より早い1903年の建立。

 タタというパーシー(ペルシャ系のゾロアスター教を信じる人たち)のインド人が、高級ホテルで宿泊を断られた。ならばということで、自らがホテルを作ってしまった。タタはインドの鉄鋼王で、今は自動車・通信など幅広い分野に進出している大財閥だ。

タージマハルホテルホテル周辺の広場は内外の観光客であふれていた。それ目当ての果物屋・炒り豆屋・土産屋などの露店(左下)が並んでいたが、しつこく売りつけることもなく、お金をくれとねだる人もいない。少なくとも私はそんな目に遭わなかった。彼らも1週間ぐらいは商売も出来なかったろう。再開しても観光客は激減しているはずだ。

インドは日本の9倍もある国。11億人以上が住んでいる国。主な公用語はヒンズー語だが、政府が認めている言語が22。実際に使われている言葉が1300以上ある国。100ルピーのお札に、16の言語で100ルピーと書いてある国。こんなに言語があっても、テレビはヒンズー語と英語だけだそうだ。

露店 垣間見ただけで「インドという国は・・」など言えないなあと考えていた時に、テロ事件が起きた。テロの犠牲になった人には申し訳ないが、テロ事件が起きたことでインド情勢の解説も多くなり、旅の間の疑問が少しは解けるような気がしている。

現地ガイドのシャルマさんは「ヒンズー教徒が80%以上ですが、イスラム教・キリスト教・シーク教・仏教・ジャイナ教ともトラブルはない。宗教・言葉・服装が違う人たち全部がインド人なんです。カースト制は独立後に禁止され、低いカーストの人も一定の割合で雇用する規則があるので、政府の要人にも最下層出身の人がいます。首相もヒンズー教徒ではなくシーク教徒です」と、話していた。

 彼が言うのはタテマエや理想であって、実態は違うんじゃないか、カースト最上級バラモンに属している彼は全体像をつかみきっていないのではないのか、の思いはぬぐえない。

実際には、同じカーストの人としか結婚しない、下層階級が出入りできないレストランや店がある、カーストによって職種がちがう、苗字を聞いただけで属しているカーストがわかるなど、カースト制度は根強く残っている。

1947年にイギリスから独立したときに、イスラム国家のパキスタンとヒンズー国家のインドが分離。そのインドとパキスタンがカシミールの領有をめぐって揉めていることは事実。そして実際にイスラム教徒によるテロが起こった。最下層のカーストの人たちよりもっと貧しいインド国内のイスラム教徒によるものか、それともアルカイダなど国際的組織によるものか。この旅日記を綴っている段階では解明されていない。

 インド門とタージマハルホテルは、おまけの観光であって、インド門の隣にある船着き場から1時間ほど乗船してエレファンタ島に向かった。テロの犯人は、この船着き場に小舟で到着したと考えられている。当局は空と陸ばかりを強化していたというから、なんと間抜けなことかと思う。

ツーショット

西洋諸国なら話題にもならないが、若いカップル(左)が船に乗っていた。こうした姿をインドで見たのは、これが最初で最後だった。まだまだ公の場での男女交際は認められていないという。

 ほかに勤め人らしい4〜5人の男女グループもいた。女性2人はサリーを着ていない。「サリー持ってないの」と聞いたら、笑いながら「何10枚も持っている。今日は島に来るので着なかった」。

 その後私達が街で目にした女性はほとんどがサリーを着ている。民族衣装が世界中から消えつつある今でも、街中ではサリーの方が目立つ。

サリー姿 こんなに近くでサリー(左)を見るのは初めてなので、どんな風に巻いているか興味津々。それを感じ取ったお母さんは、巻き方を説明してくれた。短いTシャツごときものを着て、それに1枚布を巻き付けている。6bの布だ。太った人もやせた人も同じ寸法だから便利なものだ。

 結婚した女性が髪の分け目に赤い筋を入れることも彼女に聞いた。赤い筋をいれることが、ちょっかい出さないでの意思表示にも思える。額につける丸い印をビンディというが、これも赤が多い。インドでの1日目。なにもかも珍しい。(2010年4月16日 記)


感想・要望をどうぞ→
次(エレファント島とヒンズー教)へ
ホームへ