インドの旅4
 アジャンタ石窟寺院・シーク教徒

2008年11月11日(火)-4日目

アウランガーバードから南へ104`のアジャンタ石窟寺院に向かった。途中から公害の少ないバスに乗り換えて石窟の下に着いた。電気自動車ではなかったが、少しは排ガスが少ないのだろう。

アジャンタはワゴラ渓谷の岩肌600メートルに馬蹄型に掘られた26の仏教寺院である。8〜11窟はBC2世紀からAD1世紀の小乗仏教窟。それ以外は5〜7世紀の大乗仏教窟。仏教の衰退と共に1000年以上忘れられていたが、1819年にイギリス人ジョンスミスが、虎狩りをしている時に偶然見つけた。虎は逃したが、もっともっと大きな獲物にありついたのだ。大発見には、なにかしらドラマがある。

アジャンタ石窟 蓮華手菩薩像 涅槃像
岩肌に作られた窟が600bも続いている。 第1窟の蓮華手菩薩像。法隆寺の壁画に似ている。 第26窟、最後の見物は涅槃像。

1窟は保存状態がもっとも良い。暗いのでよく見えないが、懐中電灯で照らすと、壁や天井には一面、釈迦の一生などの仏画が描かれている。色もよく残っている。緑は植物の葉、黒は炭、青はペルシャから輸入したラピスラズリ。正面奥には、蓮華手菩薩像と、金剛菩薩像の2体がある。蓮華手菩薩像は法隆寺の壁画とそっくりだ。法隆寺を描いた人は、これを真似たのだろうか。

2窟は僧院窟だが、1000体仏が描かれていて華やかだ。天井画に鬼子母神もある。10窟はアジャンタでもっとも古い。小乗仏教の寺院なので、装飾は乏しいが、大きなストーパがあり荘厳な感じがする。ジョンスミスが最初に発見したのがこの窟で、彼のサインが残っている。

 17窟も保存がよく壁画が見事だ。19窟は柱にはブドウが掘られ、ヘレニズムの影響が見られる。そういえば、アレキサンダー大王も、インドに足を踏み入れている。26窟には7bの涅槃像が静かに横たわっていた。仏教窟最後の見物が涅槃像というのは、「さあこれで終わり」の締めくくりに相応しい。

2日目のエレファンタ島、3日目のエローラ石窟、4日目のアジャンタ石窟と、仏教やヒンズー教の像を疲れるほど見学した。当分、ホトケサマとカミサマはご辞退したい気持ちだ。

出稼ぎ労働者 笑顔 牛
出稼ぎ労働者が家族で移動。 笑顔で応えてくれた。 思い詰めたような牛の走り。

現地ガイドのカプセさんとはアジャンタ見物後にお別れ。昼食後、列車に乗るためにブサヴァル駅に向かった。途中、バスの左側に大きな荷物と家族連れが乗っている牛車が、10台ほど隊を連ねていた。「写真を撮りたいから止めて〜」と叫んだ。少し走ったところで止めてくれたので、牛車の隊列を迎える形になり良い写真が撮れた。

寺院ばかりで、インドらしい写真が撮れてないなあと嘆いていた矢先に、生活感があふれる場面に出くわした。最下層の人たちが移動しながら稼いでいるという話だ。ある地点まで行くと、テントを張って寝泊まりする。働く場所があると留まる生活をしているらしい。家族連れも手を振って笑ってくれた。見せ物じゃないぞーと、怒鳴られるかと思ったが杞憂だった。重い荷物を運んでいる牛たちは、カメラには目もくれず、一生懸命走っていた。思い詰めたような走り方だった。

ホテルのオーナー 夕食の弁当 力持ちのポーター
ホテルのオーナーはシーク教徒。 ホテルで調達した夕食の弁当。 これ以外に腰に1つぶらさげている。

途中のホテルで休憩。このホテルで今日の夕食用の弁当を受け取った。ホテルのオーナーがシーク教徒だった。インド人というとターバンと結びつけてしまうが、ターバンを巻いているのは、シーク教徒の男性だけだ。髪の毛や髭を切ってはいけないので、束ねた髪をターバンで隠している。シーク教徒男性に共通のいでたちは、ターバン・ハーフパンツ・ブレスレッド。ターバンの中には小さい櫛も入れている。

 オーナーに「ターバンを取ってみて」と頼んだら気軽に取ってくれた。さぞかし長い髪かと思いきや意外に短い。お年寄りだから、髪が薄くなっているのだろう。写真は取り損ねてしまった。

シーク教は、グル・ナーナク(1469〜1538)が開祖。イスラム教の影響を受けてヒンズー教を改革した宗教である。シーク教徒は2%にすぎないが、その90%は金持ちだそうだ。インディラガンジー首相は、自分のボディーガードだったシーク教の男性に殺された。でも今の首相は、シーク教徒だ。宗教と政治の関係はよくわからない。

夕方5時半ころ、ブサヴァル駅に到着。きのうビビーカ・マクラバーで修理用のラワン板を持ち上げている力持ちインド人にびっくりした。ここの駅で、もっと力持ちのお兄さん達に出くわした。スーツケースを列車の中まで運んでくれるポーターは、頭の上に2個乗せてもまだ余裕があるらしく、片手でもう1個持つ。スーツケース3個というと60キロにはなるが、駅の階段も上ってしまう。全部人力で運んでしまう彼らにびっくり。皆がカメラを構えた。それにしても人件費が安いのだなあ。

インドの鉄道の開通は、日本より約20年早い1853年。鉄道の敷設は支配国のイギリスが綿花を運ぶ目的でつくったもので、インドが自慢する代物ではないが、総距離もアジアでいちばん長い。

列車内のシーク教徒 乗った列車は、ひとつのコンパートメントに6人が乗る2等寝台車。私は同じツアーの6人と一緒だったが、Sちゃんがあてがわれた席は、同じコンパートメントにツアー仲間は3人だけで、他の3人がどんな人かわからない。Sちゃんは「変なインド人の男性が乗ってきたらどうしよう。おちおち眠れやしない」と大騒ぎ。私と同い年のSちゃんは襲われる年齢はとっくに過ぎているのだが、言われてみればその通り。結局は、インド人の家族連れ3人が道連れ。大騒ぎは無駄だった。

6人用のコンパートメントの通路を挟んで1人用の席がある。そこに真っ白い顎髭をはやしたシーク教徒(左)が乗っていた。列車に乗る数時間前にシーク教徒の人と話したので、やけにシーク教徒と縁がある日だ。「写真を撮っていいか」と聞いたら鷹揚に頷いた。作り笑いなどせず、自然体でおさまってくれた。

 そのうち弁当を食べ始めたが、インド人は手で食べるという噂はホントだった。食べ終わった後のゴミは、列車からぽーんと外に捨てた。哲学者のような風貌の男性が、こんなことをする。風貌とやることの違いに違和感を持ってしまったが、ゴミのぽい捨てが悪いとは思ってないのだろう。食事が終わると、聖書のような本を読みながら祈っていた。シーク教徒が隣にいたおかげで、退屈せずにすんだ。

夜中の1時過ぎ、とんでもない時刻に下車することになっているが、寝ないと身体がもたないので、みな横になった。

降車はボーパール駅。また力持ちさんにスーツケースを運んでもらい、ホテルに着いたのは夜中の1時45分。やれやれ、今日もちょっとしか寝ないホテルに宿泊代を払っている。清潔とは言い難い寝台車で横になっていたので、風呂に入りたい。でもバスタブがなかった。バスタブがなかったことが、翌日思わぬ幸運を呼び込むことになるとはこの時は知らなかった。<ボーパールのヌール・ウッサバパレス泊>(2010年6月2日 記)

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