インドの旅8
 ガンジスの沐浴と仏教の聖地

2008年11月15日(土)-8日目

ガンジス河にくりだす小舟バスを降りて、ガンジス河に向かっている。ガンジス河には全体で80くらいのガート(階段)があり、沐浴する人たちは、それぞれお気に入りのガーを使っている。

 私たちが舟に乗りこんだダーシャ・シュワメードガートは、80のガートの中心になっている。沐浴する人・灯籠流しの花を浮かべる人・河の水をポリ容器や壺に汲んでいる人・小舟に乗ろうとしている人達で大混雑。グループの群れに付いていくのが大変だ。

 小舟に乗る(左)のは、ガンジス河沿岸で沐浴するヒンズー教徒を見学するのが目的だ。朝日にむかって祈りながら沐浴している人たちを見学し、ほとんどの人はパチパチやっている。祈っている人にカメラを向けることに躊躇するが、どうも当事者はそんな事気にしないらしい。小舟を漕ぐことで稼いでいる人たちも大勢いることだし。

ヒンズー教徒はガンジス河を「清らかにして聖なる河」と思っている。シヴァ神の髪からしたたり落ちた水だと信じているからだ。「死ぬまでに1度はガンジス河に行きたい」「死ぬならそこで死にたい」の熱い思いをいだいている。イスラム教徒が、1度はメッカに行きたいと熱望しているのと同じだ。

実際のガンジス河は、「聖なる」はともかく「清らか」とは正反対だ。大腸菌が安全値の300倍もあるという。でもインド人がその水を飲んでも病気にならないらしい。水は茶色で、魚が住んでいるかどうかの確認もできない。聞いたところではガンジス河で捕れる魚は市場に出回っている。私がインドで魚を1度も食べなかったのは正解だった。牛の死体や山羊の死体も浮かんでいる。汚物や灯籠流しの花もプカプカ浮いている。人間の死体も浮かんでいるらしいが、私は見なかった。

ガートは、朝日を拝む西岸に固まっている。河の対岸は建物もなく殺風景。ガートの上は、宿坊・邸宅・鮮やかな色合いの寺院・大きなシヴァ神像などがびっしり並んでいる。「久美子の家」という日本人が経営している宿もあった。 

男性は上半身裸で下は腰布やパンツを身につけ、女性はサリーを着たままで沐浴していた。水を頭からかける人、口をすすぐ人、耳の穴を清める人、祈っている人、壺やポリ容器に水を汲む人。

女性の沐浴 男性の沐浴
沐浴している女性。女性はサリーのまま水に入る。 男性は上半身は裸で沐浴する。


 シャルマさんは、「今日は人が少ないです。ヒンズーの祭りなど特別の日には100万人も来ます」と言う。「あなたも沐浴したことある?」と聞いたら「もちろん何度もしています。若い日本人を案内したときに、彼らが沐浴したいと言うから一緒にやりましたよ」。何でもしてみたい私だが、ここでの沐浴はできない。50歩譲っても足をつけるぐらいだ。

最大の火葬場・マニカルニカガートを舟から見た。火葬場にあがっての見学はなかったが、ここで降りるツアーもある。「沐浴は写真に撮ってもかまわないが、火葬だけは絶対に撮らないで」と事前に注意があった。インド中から遺体が運ばれるうえに、1体が燃え尽きるのに3時間もかかる。したがって火葬場は24時間フル回転。薪を高く積み上げているところから赤い火と煙が上がっていた。薪に点火するのは長男の役目なので、ヒンズー教徒はどうしても男の子が欲しいそうだ。結婚しない人や長男に恵まれない人は、親戚に頼む。

 薪を用意できない貧乏人や自殺した人や5歳以下の子供は火葬できないので、直接ガンジス河に流す。火葬した場合は遺灰を流す。ヒンズー教徒には墓がないので、ガンジス河が墓場なのだ。どうやら墓場だけはカーストも関係ないようだ。

ヒンズー教徒にとって、現世だけが人生のすべてではなく、前世・現世・来世と繋がるごく一部と考えている。沐浴で現世の罪が許され、遺灰がガンジスに流されれば輪廻からの解脱を得るという。来世を確認できて安らかな気分になるらしい。

遺灰や死体が流れる河の水で口をすすぐ、ふるさとに持ち帰って土産にする。清潔志向が高い日本人なら卒倒しそうな行為だが、地球上にはさまざまな価値観を持った人たちがいて、それを当然と思っている人たちがいる。「汚い、不潔のひとことで語ることはすまい」と自分に誓った。

洗濯乾し場ケーダールガートでは職人が洗濯をしていた。白っぽい布や鮮やかなサリーを、石に打ち付けて汚れをとっている。数人が腕を振り上げて布を打ち付けているさまは壮観だ。もちろん最後のすすぎもガンジスの水を使っている。乾すのは石の上(左)だ。

ラワン材を人のリレーで持ち上げているときは「なぜクレーンを使わないのだろう」、重いスーツケースを運んでいるときは「なぜキャリアカーを使わないのだろう」、人力での洗濯を見たときは「なぜ洗濯機を使わないのだろう」と私は思った。おそらく人が余っていて人件費が安いのだろう。勝手に文明を押しつけることはないのだ。効率を考えるからこそ、突然の解雇もある。こういう世界には、突然の首切りなどないような気がする。

沐浴見学後に同じ道を戻る路上に、目をつぶった老人が横たわっていた。眠っているのかと思ったが、みんなが「死んでいる」と言っている。だれも彼を端によけようとはしないので、死んだ直後らしい。とても安らかな顔をしていた。

 ホテルで朝食後、ベナレスの北東10`にあるサールナートへ向かった。生誕の地ルンビニ、覚りを開いたブッダ・ガヤー、最初に説法を行ったサールナート、入滅したクシナガラを4大聖地という。仏教遺跡を訪ねるツアーやお坊さんの団体は、4大聖地はもちろん8大聖地まで足を延ばすそうだ。もっともインド観光としてはマイナーな地。道路が整備されてないので、難儀するという話だ。 

生まれたのは紀元前463年。生年は諸説あるが、いずれにせよ2500年前のことで世界3大宗教の中でいちばん古い。8大聖地のうちルンビニだけはネパールに属しているが他の7つはインドにある。菩提樹のもとで49日間瞑想して覚りを開いたのは35歳。最初に説法をしたサールナートは、仏教幕開けの地でもある。沙羅双樹のもとで入滅した時、仏陀は80歳になっていた。

釈迦の誕生サールナートでは最初にムルガンダクティー寺院へ行った。1931年にスリランカに本部をおくマハーボディー会が建立した仏教寺院で、仏陀の生涯が壁画にありわかりやすい。日本人の画家・野生司香雪が1932年〜36年に描いたという。戦火にも遭わずきれいに残っている。

 仏陀の母・マヤ夫人は白い象が胎内に入る夢を見て釈迦を懐妊(左)した。出産のために実家に帰る途中にルンビニの樹の下で右脇から仏陀を産んだそうだ。

 「イエス誕生と同じような逸話ね」と去年のイスラエル旅行でも一緒だったSちゃんと話した。「平凡に生まれたのでは神秘性に欠けるのね」と。

次にダメーク・ストーパを訪れた。数日前に訪れたアショカ王のストーパ付近も、静かなのんびりしたところだったが、ここも清潔な芝生と木々に囲まれた地だ。

 6世紀に作られたストーパは高さ30b直径28b。一部は破壊されているが、壁面の模様はきれいに残っている。スリランカのお坊さんグループやタイ人の団体がお経を唱えながらストーパの回りを歩いていた。もちろんひざまついて祈っている人もいる。インド人の姿はなかった。なにしろインドの仏教徒は0.7%に過ぎない。

ストーパ 経を読む僧 ストーパの周囲で祈っている
ダメーク・ストーパ ストーパの前で経を読む僧 ストーパの回りを祈りながら歩いている

でも仏陀はヒンズーのヴィシュヌ神の化身と信じられているので、ヒンズー教徒は仏さまをないがしろにはしない。ヒンズー教・シーク教・ジャイナ教・仏教は根が同じということで、宗教対立が起こることはなく、いちばんの問題はヒンズー教とイスラム教の対立である。

ストーパ以外に、僧院跡やアショカ王の円柱の基部も残っていた。サールナートからの出土品を集めた考古学博物館も見応えがあった。特にアショカ王の石柱頭部にあった4獅子像は見事。(2010年8月2日 記)

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