インドの旅9 2008年11月15日(土)−8日目 ホテルで昼食後、デリーに飛ぶためにベナレス空港に向かった。セキュリティチェックにやたら時間はかかるし、4社の便がほぼ同時刻に出るために待合室が大混雑。1時間半ほど遅れたが、1週間ぶりにデリー空港に戻ってきた。 空港からデリー市内までの道は、幅も広く舗装されている。もちろん動物の闊歩はないし、リキシャも走っていない。街灯や街路樹もきれいに整備され、芝生つきの邸もある。イギリス人が住んでいた邸は、独立後の今はインドのエリート達の住まいになっている。車窓から見る限りでは、ニューデリーは近代都市である。 「人口が増えすぎるから子どもは2人まで」の政府の方針を守っているのは、デリーなど都市の住民だけである。人口の73%は農村に住んでいるから、人口は増えるばかりだ。2020年にはインドが中国を抜いて世界1になるという予測がある。地球の食べ物が食い尽くされてしまうと、本気で恐れている人もいる。 夕食はデリー市内の「富士屋レストラン」で。富士屋と名がついているけれど、焼きそば・チャーハン・餃子・水炊き・フライドチキンなどの多国籍。日本料理ではなかった。 <デリーのホテル・サムラート泊> 11月16日(日)-9日目 今日から最終日までのドライバー・メジャルさんもアシスタント・サルバンさんも、シーク教徒。ふたりともいつも笑顔を絶やさない。深紅のターバンや目の覚めるような青色のターバンをしている。ターバンは白と決まっているのかと思ったが、シャツの色と合わせるなどファッショナブル。帰国後に、青いターバンに黒っぽい上着を着たシン首相をテレビ画面で見た。彼の発言内容は覚えていないが、オシャレだなという印象が残った。 今日の午前中はデリーの観光。デリーに首都が置かれたのはイギリスの支配が始まってしばらく経った1911年。ジョージ5世がインドを訪問した時に、カルカッタ(今はコルカタ)からデリーに遷都することを宣言した。
まず向かったのはラクシュミー・ナラヤン寺院。ラクシュミー女神とその夫ヴィシュヌ神を祀ってある。独立運動の支援者だったビルラー財閥が、ガンジーのために1938年に建立した。「アンタッチャブルでも入れる寺院を建てなさい」というガンジーの言葉を今でも守っている。ということは、普通のヒンズー寺院は、アンタッチャブル階級は入れないということだ。ちなみに、ガンジーがヒンズー原理主義者の青年により暗殺されたのは、ビルラーの邸に滞在している時だった。 次はインド門。ムンバイで見たインド門と違い、第1次世界大戦で戦死した兵士を祀る慰霊碑。13000人の名前が刻まれている。カルカッタからデリーに遷都したときに、イギリス人が建立。近くに合同庁舎、国会議事堂などの官庁街を放射状に作ったのもイギリス人である。 そばの公園で市民がクリケットの試合をしていた。野球と似ていてルールがわかるから面白い。もともとはイギリスのスポーツだったが、今はインドとオーストラリアが強い。クリケットをしている国は16ヵ国。オリンピックの種目にはなっていないが、国際大会もある。
次は1565年に建立したフマユーン廟へ。ムガール帝国第2代皇帝フマユーンの廟である。ペルシャ様式で赤砂岩・白と黒の大理石を使っている。タージマハルほど有名ではないが、インドイスラム建築の傑作といわれる。1993年に世界遺産。 次はニューデリーから南15`のクトウブ・ミナールへ行った。ミナールはミナレットのことで、ヒンズー勢力を破って北インドを征服したクトウブ・アイバクが建てたイスラムの塔。高さ72.5bでインドでは一番高いミナール。もともとは100bあったが、飛行機事故で今の高さになった。 ミナールのそばにあるモスクは、13世紀のインド最古のイスラム寺院跡。ヒンズーやジャイナ教の寺院を壊して作ったので、動物やガネーシャの像が柱に残っている。イスラム教は偶像を禁止しているので、顔だけは壊している。顔を壊すぐらいなら、自力で作れよ〜と言いたくなるが、ここがこの寺院の面白いところだ。
デリー市内の日本料理「たむら」で昼食。「異国での日本料理なんてろくなものはない、日本料理もどきだから、かえって始末が悪い」と、みんなで言い合っていた。ところが、ここの昼食は日本の味がした。お代わり自由のみそ汁も美味しい。日本人の顔をしたウェイターがいたので、日本語で話しかけたが通じない。ネパール人とのことだった。 デリーを自由に歩き回りたかったが、そんな時間はないようだ。ムンバイ同様、現代のデリーをほとんど見ぬまま、宿泊地アグラまでバス移動。休憩を含め5時間もかかってホテルに到着した。
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