インドの旅9
 ニューデリー

2008年11月15日(土)−8日目

ホテルで昼食後、デリーに飛ぶためにベナレス空港に向かった。セキュリティチェックにやたら時間はかかるし、4社の便がほぼ同時刻に出るために待合室が大混雑。1時間半ほど遅れたが、1週間ぶりにデリー空港に戻ってきた。

空港からデリー市内までの道は、幅も広く舗装されている。もちろん動物の闊歩はないし、リキシャも走っていない。街灯や街路樹もきれいに整備され、芝生つきの邸もある。イギリス人が住んでいた邸は、独立後の今はインドのエリート達の住まいになっている。車窓から見る限りでは、ニューデリーは近代都市である。

「人口が増えすぎるから子どもは2人まで」の政府の方針を守っているのは、デリーなど都市の住民だけである。人口の73%は農村に住んでいるから、人口は増えるばかりだ。2020年にはインドが中国を抜いて世界1になるという予測がある。地球の食べ物が食い尽くされてしまうと、本気で恐れている人もいる。

高校生の団体 インドの識字率は2001年の国勢調査では65%ぐらい。学校に通う率は47%ぐらい。子供は労働力と考えている農村では学校に行かせる考えがないので、簡単には就学率は上がらないだろう。

 「イギリスの植民地だったので、ほとんどの人は英語を話せる」と日本では思われている。私もインドに来るまでは、本当だろうと思っていた。しかし英語を話せる人はせいぜい20%だという。左写真は、旅行カバンを持った高校生の集団。ちょっとしたことを英語で聞いたのだが、まったく通じなかった。

 インドの子供達が、68×34を暗算ですらすら答えている授業をテレビで見たことがある。数学教育がいいからIT技術者も育つのだという内容だった。

 シャルマさんに今でも暗算できるかと聞いた。「その時は一生懸命暗記したから言えたけど、今は忘れちゃった」とがっかりするようなことを言う。歴史を専攻した彼に、数学とITとの関係の説明はしにくいようだ。IT技術者は100万人以上いるが、人口比率ではわずか0.1%位にすぎない。

 ということで、日本で流布している「数学と英語が出来るIT技術者がたくさんいる」というインド感は、かなり割り引いて考えなければならない。これが10年後20年後となると話は別だ。カーストや貧困は無くならないだろうが、世界1の人口から優秀な人物が出る可能性は大きい。びっくりするほど発展するかもしれない。

夕食はデリー市内の「富士屋レストラン」で。富士屋と名がついているけれど、焼きそば・チャーハン・餃子・水炊き・フライドチキンなどの多国籍。日本料理ではなかった。  <デリーのホテル・サムラート泊>

11月16日(日)-9日目

今日から最終日までのドライバー・メジャルさんもアシスタント・サルバンさんも、シーク教徒。ふたりともいつも笑顔を絶やさない。深紅のターバンや目の覚めるような青色のターバンをしている。ターバンは白と決まっているのかと思ったが、シャツの色と合わせるなどファッショナブル。帰国後に、青いターバンに黒っぽい上着を着たシン首相をテレビ画面で見た。彼の発言内容は覚えていないが、オシャレだなという印象が残った。

今日の午前中はデリー観光。デリーに首都が置かれたのはイギリスの支配が始まってしばらく経った1911年。ジョージ5世がインドを訪問した時に、カルカッタ(今はコルカタ)からデリーに遷都することを宣言した。

シーク教徒のドライバー ヒンズー寺院 インド門
おしゃれなシーク教徒のドライバー。 ヒンズー寺院のラクシュミー・ナラヤン寺院。 イギリス人が建てたインド門。

まず向かったのはラクシュミー・ナラヤン寺院。ラクシュミー女神とその夫ヴィシュヌ神を祀ってある。独立運動の支援者だったビルラー財閥が、ガンジーのために1938年に建立した。「アンタッチャブルでも入れる寺院を建てなさい」というガンジーの言葉を今でも守っている。ということは、普通のヒンズー寺院は、アンタッチャブル階級は入れないということだ。ちなみに、ガンジーがヒンズー原理主義者の青年により暗殺されたのは、ビルラーの邸に滞在している時だった。

次はインド門。ムンバイで見たインド門と違い、第1次世界大戦で戦死した兵士を祀る慰霊碑。13000人の名前が刻まれている。カルカッタからデリーに遷都したときに、イギリス人が建立。近くに合同庁舎、国会議事堂などの官庁街を放射状に作ったのもイギリス人である。

そばの公園で市民がクリケットの試合をしていた。野球と似ていてルールがわかるから面白い。もともとはイギリスのスポーツだったが、今はインドとオーストラリアが強い。クリケットをしている国は16ヵ国。オリンピックの種目にはなっていないが、国際大会もある。

クリケット フマユーン廟 インドイスラム建築
野球に似ているクリケットはインドでは人気があるスポーツだ。 ムガール帝国2代目のフマユーンの廟。 フマユーン廟はインドイスラム建築の傑作。

次は1565年に建立したフマユーン廟へ。ムガール帝国第2代皇帝フマユーンの廟である。ペルシャ様式で赤砂岩・白と黒の大理石を使っている。タージマハルほど有名ではないが、インドイスラム建築の傑作といわれる。1993年に世界遺産。

次はニューデリーから南15`のクトウブ・ミナールへ行った。ミナールはミナレットのことで、ヒンズー勢力を破って北インドを征服したクトウブ・アイバクが建てたイスラムの塔。高さ72.5bでインドでは一番高いミナール。もともとは100bあったが、飛行機事故で今の高さになった。

ミナールのそばにあるモスクは、13世紀のインド最古のイスラム寺院跡。ヒンズーやジャイナ教の寺院を壊して作ったので、動物やガネーシャの像が柱に残っている。イスラム教は偶像を禁止しているので、顔だけは壊している。顔を壊すぐらいなら、自力で作れよ〜と言いたくなるが、ここがこの寺院の面白いところだ。

 中庭には、純度が100%近い鉄柱が立っている。4世紀に作られたというが、去年作ったかのように完全な形をしていた。「1700年も前の鉄が錆びてないのはおかしい」と、Hさんはしきりに言っている。何十年も前にインドを訪れた父のアルバムにもこの鉄柱の写真が貼ってあり、私たちが説明されたと同じ記述がある。

ミナール ヒンズー寺院の柱 日本食
クドウブ・ミナール 最古のイスラム寺院。ヒンズーの寺を破壊して柱を使った。 日本料理「たむら」の昼食は美味しかった。

デリー市内の日本料理「たむら」で昼食。「異国での日本料理なんてろくなものはない、日本料理もどきだから、かえって始末が悪い」と、みんなで言い合っていた。ところが、ここの昼食は日本の味がした。お代わり自由のみそ汁も美味しい。日本人の顔をしたウェイターがいたので、日本語で話しかけたが通じない。ネパール人とのことだった。

デリーを自由に歩き回りたかったが、そんな時間はないようだ。ムンバイ同様、現代のデリーをほとんど見ぬまま、宿泊地アグラまでバス移動。休憩を含め5時間もかかってホテルに到着した。      
                              <アグラのクラークスシラーズ泊>(2010年8月16日 記)

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