アイルランドの旅 その3 
 ロンドンデリーからスライゴ―へ

2013年6月22日(土)-4日目

午前中は雨模様の中、ロンドンデリーアイルランドの旅1の地図参照)の徒歩観光。「僕は郵便配達をしていたからどんな道でも知ってるから安心して」と現地ガイドが陽気に挨拶する。

街角デリーはゲール語(アイルランド語)で樫の木を意味する。6世紀に聖コロンバがこの地に修道院を建てた時に、樫の木が多かったのでデリーと名付けた。その後1613年に、イングランド王のジェームス1世のときに、ロンドンから商人や職人がたくさん移住して来たことで、ロンドンデリーと呼ばれるようになった。左はロンドンデリーの街角。

以降、プロテスタントの街として発展してきたが、もちろんナショナリスト(カトリック教徒)も住んでいる。その人たちは、ロンドンデリーとは言わない。「デリー」である。そういえば、「ロンドンデリーの歌」(ダニーボーイ)という歌は、学校で習った。深く考えもしないで、ロンドンデリーと言っていたが、それを嫌う人もいるのだ。

3年前に完成した「平和橋」や市庁舎を見ながらボグサイト地区に入った。この地区は警察の立ち入りを拒否する「FREE DERRY」を掲げていた。ところが1972年1月30日、公民権を要求するデモをしていたカトリック市民にイギリス軍が発砲、14名が亡くなった。血の日曜日事件(ブラディサンデー)として世界中に伝えられた。

フリーデリー 戦いの壁画 血の日曜日

警官の立ち入りを
拒否する「FREE DERRY」の
大きな看板

 
 
民家の壁には当時の戦いの
様子が描かれている
色あせてないから
塗りなおしているのかもしれない

血の日曜日事件の様子を
示したパネル
犠牲者の名前と写真も載っている
 



私も血の日曜日事件はよく覚えている。「カトリックとプロテスタントの対立」という意味合いで伝えられた。どうして宗教の違い、しかも同じキリスト教で殺し合いをするんだろうと心底不思議だった。授業で聖書を教えている知人に「どうしてこんなことが起きるの?」と疑問をぶつけたことがある。

その後世界各地で頻発する宗教がらみの戦いのほとんどが、宗教の教義の違いによるというより、権力争いであると分かった。宗教は隠れ蓑みたいなものと考えると分かりやすい。もとはといえばイギリスのヘンリー8世が、カトリックだと離婚が出来ないので、自分が離婚するために国教を変えてしまったことに始まる。いまだに続いているアイルランドのカトリックとプロテスタントの戦いが、王様の自分勝手な欲望を通すためが発端だとは、あきれるばかりだ。

イギリスは2010年に血の日曜日事件を正式に謝罪した。「謝罪するぐらいなら、殺すなよ」と言いたいが、世界はこういう不条理がまかり通っている。FREE DERRYの近くの民家の壁には当時の戦いの絵が描かれているし、血の日曜日事件の被害者の慰霊碑も建っている。フリーデリー博物館もあるが、中に入る時間はなかった。

城門と城壁ロンドンデリーの城門と城壁(左)は、1613年から5年かけて、イギリスからの入植者によってつくられた。今となっては街のアクセントになっているが、この城壁を舞台に、1688年から89年に大きな戦いがあった。

一昨日訪れたボイン川の戦いとおなじ、イギリスのカトリック王ジェームス2世とプロテスタントのウイリアム3世の王位をかけた戦いが、ここでも繰り広げられた。

そのときの大砲も残っている。戦いは105日間にもおよんだ。プロテスタントが多いこの町の住民はウイリアム3世を応援し、ウイリアム3世の勝利に貢献したが、犠牲者はたくさん出た。戦うにしても、植民地でなく本国でやってもらいたいものだ。

城壁を降りて、聖コロンバ大聖堂見学した。1633年建立のプロテスタント教会。樫の木の椅子には169種類の装飾が施されている。聖堂の隣の部屋には、1688年の戦いの資料が展示されていた。

次の地に向かおうとしていたら、バスが故障だと言う。アイルランド1周は、同じバス同じドライバーだと聞いている。これからの日程が危ぶまれたが、結果的には故障はこの時だけだった。

ロンドンデリーからほんのちょっとで、アイルランド共和国に入った。この時もなんの目印もなかった。

修道院跡1時間半ほどで、ドネゴールに着いた。ドネゴールはケルト人によって5世紀ごろ開かれた町。面白そうなところだか、昼食をとっただけ。

町のはずれにあるフランシスカ修道院跡(左)を見た。崩れ落ちそうな石の壁やマリア像などが残っているだけの廃墟。イギリスに支配された時から閉鎖したままだ。カトリックの国がプロテスタントの国に支配されると、こうなってしまう見本だ。

次はスライゴー(アイルランドの旅1の地図参照)へ。スライゴーの中心部に入る前のイエーツのがあるところで、ガイドが待っていた。朝から降っていた雨は途中で青空になったが、この時また降り出した。気温も低い。夏にしては寒い日はこれからも続き、コートなしの日は数日しかなかった。


イエーツの墓もっとも冬でも零度以下になることはめったになく、冬でも芝生が枯れないそうだ。「温度差が少なくて住みやすい」と初日のガイド沼田さんが話していた。

ノーベル文学賞をもらったほどの作家だからイエーツの名前は知っているが、彼の作品を読んだこともない私は、「どうでもいいなあ」と思いながら説明を聞く。1865年にダブリンで生まれ、その後ロンドンへ。1939年に南仏で亡くなった。左の墓にも生年と没年が彫ってある。

母方の祖父が教会の牧師でスライゴーに住んでいた関係で、子どものころのイエーツはスライゴーで暮らしていた。スライゴーの自然をこよなく愛し、文学の感性もここで養われたそうだ。そんなに好きな土地なら住めばいいじゃないと思うけれど、「故郷は遠きにありて思うもの」なのだろう。

イエーツの像スライゴーの中心地でイエーツ記念館に行った。銀行の建物を記念館に改修したので重厚なレンガ造り。写真や原稿などが展示してあるが、そもそも彼の作品を読んだことがないので、興味は半減する。教養を積んでないとダメだなあと、少々反省。 日本から贈られた能で使う扇子だけは覚えている。日本の能に関心をもっていたらしい。 

HPで銅像めぐりを書いている私は、銅像だけは興味がある。博物館の対面にある一風変わったイエーツの銅像だけは何枚も撮った。その形からコブラとも言われる銅像だ(左)。全身に彼の詩が刻んである。

私がアイルランド出身の作家で第1に思い出すのは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)だ。ギリシャ人の母、アイルランドの父の間に生まれた。1890年に来日してからの活躍はここで書くまでもない。

旅行中に聞いた話だが、他に日本と関係あるアイルランド人は、君が代の作曲者のジョー・ウイリアム・ペントン。横浜の妙香寺に碑がある。もっともこの曲は日本人には歌いにくかったので廃止された。

銀座の煉瓦街の設計者、トーマス・ジェームス・ウオーターズやホッケーを日本に紹介したウイリアム・トーマス・グリーなど、明治期の日本はずいぶんアイルランド人にお世話になっている。。

                     <スライゴーのスライゴサザン泊> 
                        (2014年8月2日 記)

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