アイルランドの旅 その1
2013年6月19日(水)-1日目
成田発(11時55分)→ヴァージンアトランティック航空でロンドン着(16時5分)
ロンドン発(20時30分−1時間半の遅れ)→ブリティッシュエアウェイズでダブリン着(21時20分)
1年前に同じツアーに申し込んだが、直前にキャンセルしたこともあり、今年の夏の旅は迷わずアイルランドを選んだ。アイルランドへの興味は、小説「風と共に去りぬ」と30年位前に週刊朝日に連載された「司馬遼太郎の愛蘭土紀行」を読んだ時に生まれた。
イギリスの植民地にされ絞りあげられたにもかかわらず、カトリックの信仰を捨てなかった人々、イギリスを「プロテスタント野郎」と罵倒する人々が住む国に興味があった。愛蘭土という漢字の字面からは、厳しくも愛すべき風土が想像できる。
左地図の黒い矢印が、今回の旅のコースだ。アイルランド島を反時計回りにほぼ1周するE社のツアーである。
旅の参加者は25名。ヨーロッパの旅は夫婦連れが多いが、今回も7組いる。あとで分かったのだが、そのうち4組が横浜住まい。添乗員は、3年前にオーストリーを1周したときの佐藤さん。
<ダブリンのカールトン泊>
6月20日(木)−2日目
旅行会社のツアー名は「北アイルランド・南アイルランド周遊」である。初っ端からケチをつけることになるが、このツアー名はおかしい。イギリスの正式名称(グレートブリテン<イングランド・スコットランド・ウェールズーおよび北部アイルランド連合王国>)から分かるように、北アイルランドはイギリスの一部であり、北アイルランドという独立国はない。南アイルランドという国名もない。
アイルランド島は、北海道よりちょっと広い。島全体の人口は560万人。その島の北東部、福島県ぐらいのところが北アイルランドでイギリスの統治下にある。島の大部分を占めるアイルランド共和国の人口は460万人。
今日はダブリンを北上し、ベルファストまで移動する。ガイドは日本人女性の沼田さん。ホテルを出発するや、牧歌的な光景が続いている。緑の牧草地に牛、羊、馬。バターカップという黄色い小さな花。アイルランドは酪農が盛んで、ここで消費する牛肉すべてがアイリッシュビーフだという。その説明にぴったりの光景が続いていた。
30分ほどで、タラの丘に着いた。初めてアイルランドを意識したのは、マーガレットミッチェルの小説「風と共に去りぬ」を読んだ高校生の時。この時以来、「タラはどんなところだろう」と想像していたが、やっと現地を訪れることができた。
「風と共に去りぬ」の作者の祖父はアイルランドからの移住者、主人公スカーレットオハラの父親もアイルランドからの移住者という設定だ。スカーレットは逆境におちいるたびに「タラに帰ろう」とつぶやく。そのタラは自分の農場でもあるし、アイルランドのタラをも指している。タラは、アイルランド人の心の故郷であり聖地でもあるらしい。
ヨーロッパの中部や西部に住んでいたケルト人は、紀元前200年頃にアイルランドやスコットランドやウェールズに移住した。自分たちの居住地がローマに征服されたので、逃げてきたのだ。「ケルト人発祥の地は、オーストリアのハルシュタットと言われています」と沼田さんが言う。私も添乗員の佐藤さんも3年前にハルシュタットを訪れている。「そんなことは聞かなかったわね」と発祥の地を意識しなかったことを2人で残念がった。
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タラの丘はアイルランド人
にとっては聖地
今は牧草地にすぎない
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新しい王がふさわしければ
雄叫びをあげたファルの石
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タラの王の墓
葬られている人の名は
分かってない
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アイルランドに移住したケルト人は、原住民を征服して180あまりの国を作ったが、統一国家はなかった。そのかわり、タラの丘で「ハイキング(上王)」を選んだ。「新しい王が“ファルの石”に触れると。王にふさわしければ石は雄叫びを上げただそうです」と、沼田さんはファル(運命)の石を指しながら説明する。私はいつものように「石が声を出すわけがない」とシラーとして聞いている。
長年夢見たタラの丘は、標高こそ155mだが、丘の高さは10mもないようななだらかな牧草地。足元には羊のフンもころがっていて聖地の雰囲気はない。でも丘に登ると360度が見渡せる。これがアイルランドなのだと妙に納得して四方を眺めた。
タラの丘の麓に聖パトリックの像(左)が建っていた。聖パトリックは、5世紀にアイルランドにキリスト教を持ち込んだ。シャムロックという三つ葉を使って「葉が3つに分かれているように見えるけれど1枚の葉だよ」と三位一体の教義を説いたそうだ。ケルト人の宗教を否定しなかったことから、急速にキリスト教は広まった。
ここにある聖パトリック像はシャムロックを手にしている。沼田さんが足元に生えているシャムロックを摘んでくれたが、クローバーみたいな草だ。これ以後どこの土産物屋にも緑色のシャムロックグッズが置いてあった。アイルランド航空の機体にもシャムロックの絵がついている。聖パトリックの名も、毎日のように聞くことになる。
帰国後に、日系3世の友人に聞いたのだが、アメリカでも3月17日に聖パトリックの祝日を祝うそうだ。「街中が緑に染まるの」と話していた。アイルランドの人口は460万人ほどなのに、アメリカにはアイルランド系が4000万人もいる。アイルランド人の移住が急増したのは、1840年代の大飢饉がきっかけだ。16世紀に新大陸からもたらされたジャガイモは、アイルランドの土地に最適だった。ところが病原菌でジャガイモが絶滅し、飢餓のためにたくさんの人が亡くなった。移住者が増えたのもこの時だ。
アメリカのアイルランド系の人として有名なのは、元ケネディ大統領一家だろう。西海岸のスライゴーにケネディと名のついた店があった。ここらに多い苗字らしい。ロナルドレーガン大統領もアイリッシュだ。アメリカは民主的のようでいて、人種差別のある国だ。WASP(白人のアングロサクソンでプロテスタント)しか上層部に上がれないと言われ、移民したアイリッシュの多くは消防士や警察官が多い。そんな中でアイリッシュ系大統領が2人も出たのは、本国の人は嬉しいに違いない。
マックと名がつくマックドナルド、マッカーサー元帥、スティーブ・マックウイーン、マッケンローなども、アイリッシュ。マックは息子という意味なので、マックドナルドはドナルドの息子という意味になる。スカーレット・オハラ(O’Hara)のように「オ」がつくのもアイリッシュ。ダブリンの繁華街の通りにもなっている独立運動の指導者オコンネル(O’Connell)、女優のマーガッレト・オブライエン(O’Brien)など。
沼田さんは「アイルランドのある小学校で調べたら、25%がマック、24%がオがつく苗字だった」と話してくれた。日本の鈴木や佐藤よりはるかに占有率が高い。
小さな村のパブで昼食後、ブルー・ナ・ボーニャ(ボインの宮殿)に行った。ボイン川に沿って40か所もの古墳が点在しているところだ。左はブルー・ナ・ボーニャにあった説明板。アイルランドの母国語であるゲール語と英語が併記されている。
古墳群の中でもっとも大きいニューグレンジへ。ニューグレンジは5500年前の巨大な墳墓で世界遺産になっている。遺跡の発見がほとんどそうであるように、ここも1699年に偶然、発見されたそうだ。5500年前というと、ケルト人が侵入する前。古墳を作った民族は分かっていないが、単なる狩猟民族ではなく、天文学の知識や信仰心も持っていたと考えられている。
まずビジターセンターの展示博物館を見学。ニューグレンジはボイン川沿いにある。時代はまったく違うが、1688年の名誉革命のあと、イギリスのジェームス2世とウイリアム3世の戦いがボイン川をはさんで行われた。だからボイン川の戦いに関する展示もあった。イギリス本国の戦いがここアイルランで行われたことになる。
イギリスの名誉革命(無血革命)で追放されたカトリックのジェームス2世は、王党派の強いアイルランドの地で、失権回復しようとした。イギリスでの無血革命は、アイルランドで血を流すことになった。プロテスタントのウイリアム3世がボイン川の決戦で勝ったことで、プロテスタントの勝利は決定的になった。今にいたる北アイルランドとアイルランド共和国の怨念はこの時から続いている。
話がそれてしまったが、私たちは5500年前のニューグレンジの古墳をシャトルバスで見に行く。距離が遠いというより、シャトルバスを予約制にすることで、入場制限をしているようだ。
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大きな墳墓の
ニューグレンジ
1962年から1975年に
発掘が行われた
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墳墓の入口には
渦巻き紋の石がある
せまい入口とせまい通路を通って
奥の墓室に入る
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始まりはあるが終わりがない
不思議な渦巻き紋が
たくさん描かれている
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狭くて肩幅も頭もつかえそうな通路を通って、墓の中心まで行った。天井も壁もすべて石だが、崩れたこともなく雨水が入ったこともないそうだ。冬至から7日間は、太陽光線が入口から17mの奥の部屋まで入る。こういう天文ショーはエジプトのアブシンベルなどあちこちで聞くが、当時の人たちの天文学や建築の知識にあらためて驚く。もちろん太陽信仰の表れでもある。
古墳の周辺には渦巻き状の模様が刻み込まれている。ケルト人の十字架にも渦巻き紋がある。始まりはあるけれど終わりのない渦巻き紋。思えば、日本の縄文土器にも渦巻き紋がある。縄文土器は、ニューグレンジより、もちろんケルトより古い。どんな関係があるのだろうか。 (2014年7月2日 記)
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