アイルランドの旅 6 
 ブラーニー城とキルケニー城など

2013年6月27日(水)-9日目

キラーニーを出て1時間半ほどで、ブラーニーという村に着いた。この村のブラーニー城も廃墟だ。なのに1時間も待って入場した。城の上方の外壁にある、ブラーニーストーンがお目当て。その石にキスすると雄弁になると信じられているからだ。係のおじさんに支えてもらわなければ、絶対にキスなどできない。

ツアーのお仲間のほとんどは、無理な姿勢でキスをしている。私はパス。係のおじさんは、2010年版の地球の歩き方に載っている人と同じだ。何年も同じことをしているんだな。城の周りの庭もきれいに整備されているが、石にたどり着くくまでに時間がかかり、散歩の時間が足りなかった。

ブラーニー城 ブラーニー城からの庭 ブラーニー石

ブラーニー城の内部は
廃墟で何もない

 

城のてっぺんから見た
庭はきれいだった

 

こんな無理な姿勢をして
ブラーニーストーンにキス
雄弁になるという言い伝え

昼食後2時間ほど走り、3時半頃、ロック・オブ・キャシェルに着いた。90mの高さの石灰岩の上に建つ教会。ここの領主が1011年に教会に領地を寄贈した。それ以来長い事アイルランド大司教の拠点だったが、ここもクロムウェルの侵攻で破壊された。クロムウェルによる破壊の説明は、これで何度目だろう。韓国における豊臣秀吉や伊藤博文のような存在なのかもしれない。

世界史で習ったクロムウェルは、清教徒革命をなしとげ、イギリスの王政を廃止し、議会制を始めた人。私たちはイングランド側から見た歴史を習った。でもアイルランド側からみるととんでもない人物だ。英雄の評価は難しい。

ロック・オブ・キャシェル 礼拝堂 エリザベス女王
 
ロック・オブ・キャシェル
以前はアイルランド大司教の
拠点だった
 
内部は痛みが激しくて
実際に礼拝堂として
使ってない
 
イギリスのエリザベス女王
が見学にいらした時の写真が
誇らしげに飾ってあった

ガイドの案内で教会群を見て歩いた。コーマック礼拝堂は12世紀のアイリッシュロマネスク様式、アーチの部分のギザギザ彫刻がめすらしいが、砂岩なので傷みが激しい。大聖堂と大司教館は1230年築のゴシック様式。

アイルランド人の大多数は、イギリスが嫌いだと言う。でも、エリザベス女王がここを訪れたときの写真がたくさん飾ってあった。矛盾するようだが誇らしいのかもしれない。

ここまでアイルランドを1週間以上回ってきたが、なんと廃墟が多い事か。クロムウェルの呪縛がない今、修理は可能だと思うが財政的に苦しいのだろうか。

キルケニーのホテルは17世紀の館を改造したホテル。豪華だが、街から離れているのが難点だ。   
                                            <キルケニーのライラスホテル泊>

6月28日(金)-10日目

アイルランドに着いた日と次の日のガイド・沼田さんがキルケニーアイルランドの旅1の地図参照)のホテルまで来てくれた。朝早くダブリンを発って、バスで来たそうだ。やはり日本人ガイドの説明は分かりやすい。キルケニーを徒歩で案内してくれた。

中世アイルランドの中心都市で、中世的な雰囲気を残している。まず向かった聖カニス大聖堂は13世紀に建てられたが、それ以前から他の教会が建っていたようだ。アイルランドにはランドタワー(円筒)がついている聖堂が66もある。でも円筒に登れるのは3か所だけ。ここの円筒はそのうちの一つだが、上る時間はない。

繁華街を歩いて12世紀に建てられたキルケニー城へ。17世紀と19世紀に改築されているとはいえ、かなり離れないと城の全景が撮れないほど広くてしかも均整がとれている。内部はヴィクトリア朝風な装飾がほどこされている。600年間にわたり領主だったバトラー家の肖像画もあった。

キルケニー城 キルケニー城
 
12世紀に建てられたキルケニー城
内部はヴィクトリア朝風

 
キルケニー城紋章

アボカという小さな町に寄る。手芸品が有名だと言うが、センスのあるものはない。

アボカのすぐ近くの川沿いにトーマス・ムーアの碑があった。彼はアボンモア川とアバオンペック川の合流地点のここで、1807年に“meeting of the water” の詩を書いた。

トーマス・ムーア「アボカの美しい谷よ 最愛の友と緑陰に抱かれてこのうえなく静かに憩う ここでは冷たい世の嵐が吹きすさぶこともない せせらぎのようにわが心は平和にひたる」。

詩に詠まれているとおりの静かな地に、碑(左)は建っていた。

トーマス・ムーアは日本では「庭の千草」の作詞者として知られる。「庭の千草」もこの地で書いたそうだ。

彼は、エリザベス1世が作ったプロテスタントのトリニティカレッジで学んだ。でもプロテスタントに改宗しなかったので、卒業できなかった。気骨ある文学者なのかもしれない。

4時過ぎにグレンダ―ロッホに着いた。山奥にある初期のキリスト教会跡。6世紀に聖ケビンが基礎を作り12世紀まではたくさんの修道士が生活をしていたが、12世紀にダブリン教区とグレンダロッホは統合され、ダブリンに力が移っていく。

聖ケビン教会は屋根も石造りだ。ここの円塔は、完全な形で残っているが、地上3mのところに入口がある。なぜこの高さにあるのか疑問だが、強度を保つためらしい。聖ペテロと聖パウロの大聖堂は、アイリッシュロマネスク様式。ほかに花崗岩のケルト十字などが建っている。

ダブリン郊外のホテルに着いた。ダブリンを起点に、反時計回りに島をほぼ一周する旅で、再びダブリンに戻ってきたことになる。

夜の10時ころ伝統音楽学校の地下にあるパブへ行ってみた。タクシーで行かねばならないほどの距離だったが、ツアーの仲間のほとんどが行ったので割り勘。近所のお年寄りが趣味で演奏していた。入場料は ひとり3ユーロと安いが、ビール代はもちろん別。

パブにいた高校生高校生の男女もパブに来ていた。もちろん彼らにお酒は出さない。女子高校生ふたり(左)とおしゃべりしたら、日本をよく知っているので驚いた。ひとりは日本語のサークルに入っているらしい。でもほんの少ししかしゃべれない。もっぱらこちらのつたない英語で交流。

彼女らは実は踊りにきたんだと言いながら、2階のダンス練習所に連れて行ってくれた。ステップを練習しているところだった。最初から練習に加わっていれば、踊りの輪に入れたかもしれないが、日本で盆踊りもしない私が異国で踊れるわけはないのだ。 
                  <ダブリンのローヤルマリーン泊>
                  (2014年10月2日 記)

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