イスラエルの旅2 2007年10月30日(火)-2日目 就寝したのは2時半と遅かったが、7時には目が覚めてしまった。ホテルが地中海に面していたので海辺に出てみた。ごみひとつ落ちてない海岸(左)を歩いていると、入国時の緊張も消えていく。犬と散歩していた素敵な女性が話しかけてきた。「日本には何度も行ったことがある。良い国だ」。 今日の出発は10時半とゆっくり。昨夜の出迎えに続き、現地ガイドは40歳のSaiさん。のちに他のガイドから聞いたのだが、明治維新で活躍した偉人の曾孫だ。高校生の時の1984年に家族でイスラエルに来て、家族は帰国したが自分だけは残ったという。23年間もイスラエルに住んでいる。 ホテルから少し南下してヤッフォに行った。ヤッフォは地中海に面した港町。BC1800年ころに、エジプトのトトメスV世が征服し、ラムセスU世が作った非常に古い町である。十字軍、トルコのスルタン、ナポレオンもこの町の征服に心を砕いたという。 歴史的な見どころが集まっている旧市街を、歩いて見学した。石畳の路地奥に、聖ペテロが滞在した「皮なめし職人シモンの家」がある。今も人が住んでいるので、外側だけの見学だ。
テルアビブから次の観光地カイザリアまでバスで移動中に、Saiさんが話してくれたことが、メモ帳にたくさん残っている。次の日から、ベテランといえば聞こえは良いが手抜きガイドに変わったので、今日の説明は後で思うと貴重だった。 テルアビブの人口は35万人だが、衛星都市をいれると150万人の大都会で政治経済の中心である。でも政府が首都と宣言しているのはエルサレム。しかし、国際的にはエルサレムを首都と認めていないので、各国の大使館もテルアビブにある。到着早々、きな臭い話を聞いてしまった。 1991年の湾岸戦争ときは、イラクのスカッドミサイルが、テルアビブに39発撃ち込まれた。ミサイルで死んだ人はいないが、12人がショック死。Saiさんは、ガスマスクをして密室にこもる日々。40日間もこういう状態が続いた。イラクとイスラエルは直接関係なさそうだが、アメリカ寄りだから標的になったようだ。ちょうどその頃、長男が生まれたので、奥さんの親の家にやっかいになっていた。「ガイドの仕事がない時だったので7ヶ月も居候。つらかった」と冗談めかして話した。 イスラエルは四国とほとんど同じ面積。エルサレムの緯度は鹿児島ぐらい。乾期は5月〜10月。雨期は11月〜4月。私たちの旅は乾期と雨期の境目だったが、一度も雨に降られなかった。 人口はおよそ700万人。Saiさんが来た1984年には350万人に過ぎなかったが、1990年のソ連の崩壊でロシア系ユダヤ人がどっと移住してきたので急増した。700万人の74%がユダヤ人である。他に、イスラエルの市民権を持ったイスラエルアラブ人が21%で150万人もいる。だからアラブ人とユダヤ人が結婚する場合もあり得るのだ。 ユダヤ人はイスラエルに、アラブ人はパレスチナ自治区に住んでいるとばかり思っていた。ところが、パレスチナに属さずイスラエルの市民権を持つアラブ人もたくさんいることがわかった。ステレオタイプに見ていた私には、驚きだった。ヨルダン川西岸やガザ地区に住むアラブ人、つまりパレスチナアラブ人は350万人いる。他に、6万人のドルーズ人、9万人のベドウィン、10万人のアラブ系クリスチャンがいる。 イスラエルには100以上の国から帰還した人が住んでいるので、人種のるつぼというより言葉のるつぼと言える。公用語はヘブライ語とアラビア語。誰でも最低2カ国語はしゃべることができる。 産業の1位は観光、2位はダイヤモンド、3位は戦車、4位はハイテク。主産業が観光の国なのだ。観光立国で妙なことが起こってもまずいだろう。現に、たくさんの欧米人が観光バスを連ねていた。特にキリストに関する聖地は、押すな押すなの状況だった。 4位のハイテクもうなずける話。コンピュータ技術者は良い仕事についている。コンピュータの原理を発明したのはイスラエルで、アメリカが商品化したのだという。駐在している日本人も約800人いるし、日本からの視察者も多い。「息子がイスラエルに出張で行った」の話を、2人の友人から聞いたばかりだ。 イスラエル全土の車はおよそ200万台。そのうち60%が日本車。70年代はスバル、80年代はダイハツやスズキ、90年代は三菱、今いちばん売れているのはマツダ。なぜか日産やトヨタの話はでなかった。ガソリンは1g180円ぐらい。産油国が近い割には高い。 地中海岸を40`北上したバスは、カイザリアに到着した。カイザリアはユダヤのヘロデ王(BC37〜AD4)がアテネを目標に作った町。ローマ皇帝カイザル・アウグストスに捧げる形で、カイザリアと名付けた。ローマのご機嫌をうかがいながらの統治だったが、ヘロデ王が亡くなるや完全にローマの属州にされてしまい、ユダヤ王国は消えた。 まず海岸の砂地に残る水道橋(上)を見学。カイザリアに飲み水が足りないので、カルメル山から水を引いてきた。水道橋を見るたびに、アーチの美しさと水が滞らず流れる技術に感心してしまう。 3000人収容できたという円形劇場は、地中海からの風も助けになり、音響が良いそうだ。今でも音楽会が開かれる。高いところに登ると何かいいことがあるような気がして、観客席の上まで登ったら、光る地中海が眼下にあった。1万人も収容した競技場は、映画「ベンハー」の戦車競技のロケに使われた。ユダヤ人ベンハーとローマ人メッサラの戦車競争の場面を思い出した。 ヘロデ王の宮殿跡も最近見つかった。ヘロデ王が死んだあとは、ローマの総督府に使われた。5代目の総督が、イエスを処刑したポンペイ・ピラト。イエスが十字架に架けられる映画には、必ずピラトが登場する。そのピラトの名が刻まれた石を目にして、映画の世界でしかなかった2000年前の出来事が現実味を帯びてきた。
1251年に作られた十字軍の砦も残っている。もっともここの砦は復元されたもの。聖地エルサレム奪還が目的の十字軍は、まず海岸のカイザリアに基地を築いた。十字軍の砦は、天井の梁が十字になっているのが特徴である。(2009年2月9日 記) |