イスラエルの旅3 2007年10月30日(火)−2日目 カイザリアでの昼食は、ビュッフェスタイル。以後の食事はすべてビュッフェスタイルだったが、好きな物を食べられるので大歓迎だ。野菜もフルーツも新鮮で美味しい。砂漠の国だと思いきや食糧の自給率は80%と非常に高い。
イスラエルには、ユダヤ教に基づいたコーシェル料理がある。コーシェルは、肉と乳製品を一緒に食べてはいけない。だから朝のビュッフェでもヨーグルトやチーズは何種類もあったが、ソーセージやハムなどの肉製品はなかった。乳製品と肉類は6時間あけないと、食べてはいけないのだ。 ひづめが分かれていて反芻する牛と羊は食べていいが、豚・兎・ラクダはダメ。羊や牛の血は命の源なので、食べる前に血抜きをしなければならない。 魚はヒレとウロコのあるものしか食べてはいけない。海老・鮹・貝は汚れたものとされている。でもSaiさんの家では、奥さんも海老が好きで食べているそうだ。敬虔なユダヤ教徒ではないのだろう。 更に北上して、メギドに着いた。神とサタンとの最終戦争の場所とされるハルマゲドンは、ヘブライ語でメギドの山という意味。「ヨハネの黙示録」の中にハルマゲドンの記載があるらしいが、ハルマゲドンなる言葉をオーム真理教の騒動で初めて聞いた私には、ぴんとこない話だった。 博物館で、メギドの遺跡の模型を見ながら、概略の説明を受けた。古い時代の土地が20層にも重なっている。ソロモン王の北の城門・カナン人の円形祭壇・馬屋の跡・地下水道トンネルなどを歩いて見て回った。地下水道(左)は、下り180段、登りが80段あるアップダウンの激しい遺跡だった。遺跡をめぐるには足腰を鍛えてないと楽しめない。 10月31日(水)−3日目 今日からガイドが、イスラエル在住36年というSakさんに変わった。仙台のクリスチャンの学校東北学院を出ている。銀座で仕事をしていたときに突然、「イスラエルに行ってみよう」と思いついたという。1970年頃によりによってイスラエルを思いつくのは、クリスチャンの学校出身という以外の理由があると思うが、本人が話した以上のことは聞けない。「当時はキブツ(農業共同体)に憧れる若者が大勢いたんだよ」と、帰国後に話してくれた人がいたが、Sakさんがそうであったかは知らない。奥さんはオーストラリア人。夫婦のどちらでもない国に永住しているのだから、イスラエルの住み心地はよほど良いのだろう。 ハイファから20`北上してアッコに向かった。レバノンとイスラエルは緊張関係にあるので、国境地帯には近づけない。旅が可能な所では、もっともレバノンに近い町がアッコだ。カナン人のころから5000年の歴史を持つ古い町で、世界遺産。町は、ローマ・ビザンチン・十字軍・ヴェネチア・オスマントルコなど各時代の征服者の標的になった。それだけ地理的に良いところにある。
まず十字軍の要塞に行った。オスマントルコ時代にはこの要塞の上に刑務所が建っていた。逃亡しようとした囚人が、何か地下にあると気づいて十字軍の要塞跡を見つけた。思わぬ遺跡の発見は少年によることが多いが、囚人による発見はめずらしい。その囚人へご褒美はあったのかなかったのか。 ヨハネ騎士団のホールは、カイザリアで見たと同じに、十字の梁が天井にめぐらされている。柱に出身地の模様、たとえばフランス王朝のシンボル白百合が彫ってあった。私たちは、騎士団が脱出するときの地下トンネルを抜けて外に出た。中学生の頃にナイトの小説を読みふけった私は、騎士が脱出したトンネルを歩いている、ただそれだけの事でウキウキしてくるのだった。 トンネルを抜けると、イスラム独特のスークがあった。魚・野菜・果物・香辛料・ナッツなどが山積みされ、数ヶ月前に訪ねたトルコの市場と同じ。トルココーヒーや水パイプの看板もある。そういえば顔もみなアラブ人。緑のドームと尖塔のあるモスクもいくつか見える。アッコの旧市街は、アラブの世界だ。 次は旧市街を下りて、海岸近くにあるオスマン時代の隊商宿を見た。1階が馬小屋で2階は人が泊まる部屋。中庭には馬に飲ませるための水飲み場もある。当然ながらトルコで見た隊商宿と同じようなものだ。(2009年2月16日 記) |