イスラエルの旅

 2007年10月29日(月)〜11月9日(金)

イスラエル4000年の歴史
テルアビブ・ヤッフォ・カイザリアへ
地中海沿岸を北上
ガリラヤ地方
ガリラヤ湖周辺
ゴラン高原とガリラヤ湖から死海まで
死海とその近辺
ユダの荒野からシナイ山へ
セントカテリーナ修道院
エルサレム1
エルサレム2
エルサレム3
エルサレム4

イスラエルの旅 1
イスラエル4000年の歴史

イスラエルとパレスチナ自治区イスラエルは、08年12月から09年1月にかけて23日間にも及ぶ攻撃をガザに対して行った。パレスチナ人が1300人以上亡くなり、打撃を受けた工場・農地・漁場の復興はまだ進んでいない。こんな時に、イスラエル誕生にも関係があったオスマントルコの旅行記を終え、イスラエルの旅日記を始める。つい力んでしまいそうになるが、見てきたことだけを淡々と綴っていくつもりだ。

 左地図(「AERA」から借用)の茶色の部分がイスラエルの中のパレスチナ自治区。エジプトと接している地区がガザである。今は休戦しているが、一触即発の状態であることに変わりはない。

2007年10月29日(月)−1日目

 11時50分(成田発)→オーストリア航空で→16時(ウィーン着) 4時間も待って20時(ウィーン発)→翌日の0時30分(イスラエルのテルアビブ着)

ツアーの参加者は18名。夫婦連れは私達も含め3組だけで、ほとんどが1人参加である。モロッコの旅で知り合ったHさん、Hさんがリビアの旅で知り合ったSちゃん、Sちゃんの教会での友人Tちゃん。5人で参加した。友人の友人という関係だったが、つるんでの行動が鬱陶しくなることはなかった。SちゃんとTちゃんはクリスチャンである。キリスト教に興味はあるが、教会に行ったことがない私にとって強い味方だ。事実、Sちゃんには、たくさんの事を教えてもらった。

 ウイーンのテルアビブ行きの待合室には、キッパという小さな帽子を頭にちょこんと乗せた人、もみあげを3つ編み編みにして黒いシルクハットと黒いフロックコートのユダヤ人がたくさんいた。テレビでしか見たことがないイスラエルの人達が目の前にいる。わくわく。

イスラエル1周の地図 テルアビブに飛行機で到着後は、すべてバスで移動した。左地図のように、イスラエルを1周してさらに、エジプトのシナイ山に足を延ばした。

 イスラエルを旅行するには、ユダヤ人の約4000年の歴史を知らないと面白くない。概略を知るだけで、なぜイスラエルとパレスチナが対立しているのか、なぜイスラエルがアラブ諸国に嫌われているのか、少しは理解できるような気がする。

ユダヤ人もアラブ人も、「ノアの方舟」のノアから10代目のアブラハムを父祖と考えている。アブラハムは、神からカナンの地(今のパレスチナ)を与えられて、BC2000年頃にカナンに定住。

 孫のヤコブの頃に飢饉に見舞われ、ヤコブ一族は息子ヨセフを頼ってエジプトに移住した。しかしエジプトでは奴隷同様の待遇だったので、モーセはBC1280年頃、一族を率いてエジプトを脱出。途中のシナイ山で、有名な十戒を授けられた。

モーセは、「約束の地」を目の前にしたネボ山(今のヨルダン)で命を落とすが、一族はカナンの地に戻ってきた。イスラエル最初の王サウルがBC1020年に即位。2代目ダビデのときに、首都をエルサレムにおいた。その子ソロモンの時に、エルサレムに第1神殿を作った。ダビデとソロモンの時代が最盛期。しかし、ソロモンの死後に王国は弱体化し、BC63年にローマの属州にされてしまった。

イエスキリストが「神の国」運動を提唱し、磔の刑にあったのは、こうした混沌の時代だった。AD70年に、ついにエルサレム陥落。ユダヤ人は世界中に離散していった。ローマやビザンチン時代の後にイスラム教のアラブ人が侵入して、キリスト教の聖地エルサレムはアラブのものになった。その聖地をイスラム教徒から奪回するための軍隊が、十字軍だ。しかし200年にわたる遠征でも、エルサレムを奪回できなかった。

時は下って、1897年に第1回のシオニスト会議が開かれ、シオニズム運動が始まった。シオニズムは、世界中に離散しているユダヤ人を帰還させようという思想。ついに1948年にイスラエルが建国された。建国60年である。

イスラエルに行きたいという気持ちは、何年も前からあった。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地というだけではない。キリスト教が生まれた風土をのぞいてみたい。いったんは世界中に離散したのに、消滅しないで何千年も続いているユダヤ民族。その実体を少しでも知りたい。中東をややこしくしているイスラエルとパレスチナ対立の真実を知りたい。えらそうなごたくを並べたが、はっきり言えば他の旅先と同じ、物見遊山の好奇心にすぎない。

しかし、パレスチナ人とイスラエルの対立はたびたび起こっていて、ツアーを企画する会社すらない時期もあった。今回の旅で利用したE社も、イスラエルの旅を再開したばかりだ。

入国のスタンプ

イスラエルに行くと言うだけで「どうしてそんな危ない所に行くの」とさんざん言われた。ミサイルが飛び交っていると思っている人も多い。危険なら外務省が許可するはずがないし、いざとなれば旅行会社は情報を持っているはずだ。しかし、私とてまったく安全な国とは思っていない。パレスチナとユダヤの何千年にもわたる怨念が解決しない限り、火薬庫であることに変わりはない。自爆テロに巻き込まれる心配がないわけではない。

ウイーンから3時間半で、イスラエルのテルアビブ空港に着いた。テルアビブ空港と言えば、恐ろしい記憶が蘇る。1972年に岡本公三ら3人が無差別に銃を乱射して、24人が亡くなった。日本赤軍の名を世界に知らしめた事件だった。

 35年が過ぎた今、もちろんその面影はないが、入国には今までのどの国よりも緊張した。もしイスラエルに行ったことがわかると、敵対しているアラブの国には入国できない。パスポートにイスラエルのスタンプがあってはまずい。私は「No Stamp Please」と言うだけで理由も聞かれず、スタンプを押した別紙(左)をくれて事なきを得た。よく見ると普通のパスポートにはないpoliceの字がある。

 違う窓口にならんだ夫やHさんや他数人は、No Stampの依頼は無視されて、入国スタンプをパスポートに押されてしまった。よりによってHさんも夫もパスポートを更新したばかりだが、アラブの国に行く場合は新しく作らねばならない。

ヘブライ文字

 この空港で、ヘブライ文字(左)を初めて見た。アルファベット以外の文字では、アラビア文字・ハングル・タイ文字など目にしているが、ヘブライ文字は初めてだ。ヘブライ語と英語とアラビア語が並記されている「passport control」をカメラにおさめた。

パスポートのトラブルはあったものの全員が無事入国。しかしホテルで眠りについたのは2時半をまわっていた。いつものことだが、横浜の家を出てから、24時間以上かかっている。 
<テルアビブのバセルホテル泊>(2009年2月2日 記)

感想・要望をどうぞ→
次(テルアビブ・ヤッフォ・カイザリア)へ
ホームへ