ヨルダン・シリア・レバノンの旅 13
シリア第2の都市・アレッポ

2005年1月18日(火)-8日目-

 夕方、パルミラ遺跡の山の上に聳えるアラブ城(右)へ。サラディーンによって作られた城だが、1625年にファルアルディーンがオスマントルコと戦った城として名高い。山上から夕日を見学することになっているが、朝から太陽は出ていない。サンセットの時だけ突如現れるなど奇跡に近いが、やはり雲に隠れたままだった。

 夕食時に、添乗員が日本から持ってきた素麺を茹でてくれた。E旅行者社は、旅の中間点でこのようなサービスをする。男性の添乗員だが、上手に茹でてくれた。アラブ料理も美味しいが、素麺の味は格別だ。

 この日は自由時間が多かったので、日本の友人に絵葉書を6枚書いた。旅行会社が、1人3枚の絵葉書と切手をくれる。シリアの中でもっとも辺鄙なホテルからの投函だけに、着くかどうか心配したが、6人からの報告では、到着は2月12日前後。3週間もかかっている。どこで滞ったものやら、追跡調査をしたいぐらいだ。  <パルミラのシャームパレスホテル 泊>

1月19日(水)-9日目-


 
 パルミラは砂漠のど真ん中にあるので、ホテル出発後しばらくは、土砂漠、岩砂漠の中を走った。羊の放牧をしている所でバスを停めてくれた。羊の群れと羊飼いは、それだけで絵になるので、バスストップは嬉しい。ところが、バスと人の気配で、番犬がキャンキャン吠える。羊は群れをなして遠くに去ってしまった。望遠で写した上の写真の羊は、尻を向けたままだ。

 ハマという町に着いた。ハマは、1982年にイスラム原理主義者とシリア政府が戦った地。1万人以上の犠牲者が出た。

 政府軍がが勝ちをおさめた後は、落ち着きを取り戻したが、20年が過ぎた今も、ビルは崩れ落ちそうで(左上)、薄汚い。

 ハマに立ち寄ったのは、ビザンチン時代の水車が12も残っているからだ。実際に使われているのか、観光用なのか知らないが、オロンテス川の水を汲み上げ、ゆっくり回っていた(左)。

 水車に興味がない私は、周辺に集まっている人々眺めていた。総じて貧しそうで、一度も洗濯していないような衣類を着ている。靴磨きの少年もいれば、チャイ(紅茶)売りの男(右上)もいる。水曜日の午前中だというのに、年寄りでもない男性が、たくさんぶらついていた。

 ハマから次の目的地・アレッポまでは肥沃な地帯で、小麦・ピスタチオ・綿花・オリーブが栽培されている。

 シリア第2の都市・アレッポは、トルコに近い北部にある。人口は350万人。テキスタイル、オリーブ石けん、ピスタチオが主産業。トルコから逃れてきたアルメリア人が15万人も住んでいるとか。国境に近いことを思わせた。

 昼食後にアレッポの国立博物館を見学。正面入口(左)には、テルハラ出土のハダトとイシュタールの神、ライオンや牛の像がある。マンガチックでユーモアの顔をしている。

 ネアンデルタール人の子どもの骨、アガサクリスティの夫の発掘品、マリ王朝出土の粘土板、パンを焼いた型、アッシリア・ウガリットの出土品など見応えがあった。メソポタミア文明発祥の地にいることを実感した。

 ダマスカスの博物館と同じく、ここも内部は撮影禁止。撮影を許して、HPで広く紹介してもらった方が、宣伝になると思うのだが。

 次は、アレッポの要塞(左)へ。ギリシャ時代の城のうえに、1193年、サラディーンの息子がアラブ風に改築した。

 男女高校生7人(右)が見学していた。日本人が珍しいのか、一緒に写真を撮りたがって、私達のまわりを離れない。髪形や服装から察するに、ちょっと不良っぽいが、日本の高校生に比べ無邪気だ。英語が通じないので、ニダールさんに、どこに住んでいるか聞いてもらった。近郊の町から来ているという。

 ウマイヤ朝時代のグレートモスクには、洗礼者ヨハネの父の墓がある。ダマスカスのモスクには洗礼者ヨハネの首塚があった。ヨハネ父子は、シリアでは尊敬されているのだろう。

 モスクに入る前に、身体を浄めている人々を見かけた。長い時間をかえて入念に洗っている。このところ、イスラム過激派の爆弾テロが報道されるあまり、イスラム教全体が悪く言われがちだが、イスラム地区を旅すると、こうした熱心な教徒の姿に心を打たれる。(2005年10月16日 記)

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