ヨルダン・シリア・レバノンの旅 14
シリアからレバノンへ

2005年1月19日(水)-9日目

 アレッポ最後の訪問地は、スーク(右)。隊商宿を利用した迷子になりそうなスーク(市場)だ。オリーブ石けんが有名とのことで、ガイドのニダールさんが連れていってくれた店で、土産用に買った。無骨な形なので、人にはあげずに、自分で使っている。シリアの給与水準を考えると、かなり高い石けんだが、品は良さそうだ。気のせいか、肌がつるつるする。

 自由に歩き回った時に、安くて形のきれいな石けんも山積みされていたが、スークでの買い物は難しい。ニダールさんにリベートが入るのだろうと思いつつも、仕方ない。

 金のブレスレッドを5個(左)も買った人は「アラブの商人って、可笑しいぐらいに口が上手なのよ。騙されたかもしれない」と、話していた。金の善し悪しは、私にはわからない。<アレッポのシャームパレスホテル 泊>


1月20日(木)-10日目

 今日は朝から青空。シリアで青空を見たのは初めてだ。7時半にホテルを出発しエブラ遺跡へ。1964年にイタリア人が発掘。エブラは、BC3300〜3000年にこの付近を支配していた交易都市で、独自の文字を持っていたという。エジプトのアラバスター製の壺、アフガニスタンのラピスラズリも発掘され、広範囲に交易していたことがわかる。

 次は、クラックデシュバリエヨルダンシリアレバノンの旅1の地図参照)へ。アラビアのロレンスが「43ある十字軍の城の中でいちばん素晴らしい」と言っただけあり、二重の城壁は頑丈で、かつ美しい(右)。

 貯水槽や穀物倉庫には、馬400頭と2000人の水と食料を蓄えることができたという。それも3年間分だ。規模の大きさを、この数字でご想像願いたい。

 一生懸命説明してくれるガイドには、悪いけれど、こうも毎日、遺跡ばかり見ていると、食傷気味。でも、何かしら収穫はあるものだ。城の上から、ガディシュの戦いの古戦場が見えた。エジプトのラムセス2世とヒッタイトが戦ったところだ。

 ラムセス2世は、エジプトのファラオの中で、もっとも有名である。連戦連勝で領土を広げたが、唯一の負け戦が、カディシュの戦いだ。でも、大勝利したように壁画に書かせている。エジプトを訪れた時に何度か聞いた地名を、のちに確認できるのは、非常に嬉しい。「あーあ、ここがガディシュなの〜」と、ひとりで感激していた。

 シリア最後のランチに出た前菜(左)は、毎度のことで珍しくもないが、実に美味しい。薄く焼いたパンに好みのペーストを塗って、野菜などを巻いて食べる。こんなに美味しい食事は、私が参加したヨーロッパツアーでは、一度も出なかった。「安いツアーだからダメなのよ」と言われそうだが、イスラム3国の食事は、すべて私の口に合った。

 2時から3時までに、国境超え。シリア側のダブシェールでニダールさんとお別れ。レバノン側のアブディエで、レバノンのガイド・シルビアさんが乗り込んできた。中年のアルメニア人の女性だ。一般的にアルメニア人は、語学が得意な人が多いという。シルビアさんも5カ国語が話せる。

 レバノンの面積は岐阜県ぐらい。その中に350万人が住む。平均寿命は男性が70歳、女性が80歳とヨルダンやシリアに比べ、断然高い。気候面や経済面で、他の2ヶ国より勝っているのかもしれない。

 内戦中にアメリカやヨーロッパに逃げたレバノン人は、1000万人〜1500万人もいる。本国の3倍もの人が海外で暮らしている。日本人には、想像しにくい現象だ。

 1978年から1989年のレバノン内戦は、記憶に新しい。フランスは、レバノンが独立するときに、少数派(30%)のキリスト教徒に、権限を与えた。多数派のイスラム教徒が不満を持ったことから内戦が始まった。内戦終結後は、大統領がロマン派のキリスト教徒、首相がスンニ派のイスラム教徒、会議長がシーア派のイスラム教徒と権限の平等化をはかっている。128の議席も、宗教の比率で割り当てられている。

 まず、人口50万人、レバノン第2の都市トリポリへ。他の地域と同様、ローマ、ファティマ朝、十字軍、マムルーク朝、オスマントルコの支配を受けたが、なんといっても輝いていたのは、フェニキア時代。シドン・ティルス・アルワドの3都市と交易していたのでトリポリの名がつき、フェニキア同盟の中心地でもあった。

 今や、世界中に席巻しているアルファベットは、フェニキア文字が変化したものだ。この事からも、文明度の高さがわかる。

 サン・ジル城へ。十字軍に参加したサン・ジル伯爵が要塞化し、180年間はキリスト教の城だった。のちにマムルーク朝の城に。左は、城塞の中から見た市街と地中海。

 次はスークへ。今日20日は、イスラム教の犠牲祭。祝日なので、ほとんどの店が閉まっている。初めてのスーク見物なら悔しい思いをするが、今回の旅だけで、スークは何カ所も訪れた。誰からも不満は出ない。

 がらんどうの薄暗いスークに、赤い血の跡がたくさん残っていた(右)。犠牲祭は、羊を殺して生け贄にする。金持ちは、個々の家で1頭の羊を殺すが、貧しい人は共同で儀式を行う。数日前から、羊を連れて歩いている人をたくさん見かけた。まるで犬を連れて散歩しているような微笑ましい光景に思えたが、実は、殺すための羊を連れ歩いていたのだった。

 スークの一画にある、ハマムの内部も見せてもらった。ハマムは、いわゆるトルコ風呂。サウナみたいなもの。トルコで、ハマムに入ったことがあるが、ホテルの観光用だったので、今思えば、きれいすぎ。トリポリで訪れたハマムは、16世紀のものだという。400年の歴史がしみついたようなハマムだった。腰に布を巻いた男性数人がくつろいでいる場所まで、ガイドはどんどん入っていった。こんな所まで見なくてもいいのにと思う。

 店は休みだったが、スーク周辺にはたくさんの人が集まっていた。子ども達も人なつこいし、スカーフの女性達も、笑顔でカメラに収まってくれた。アラビア語を話せないので、アイコンタクトで撮影を頼む。たまに断られるが、まずはOKだ。

 右写真は、スークの近くにあった住宅の路地。家族連れが、外出しようとするところだった。<トリポリのクオリティ・イン泊>
(2005年11月2日 記)

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