ヨルダン・シリア・レバノンの旅 18
フェニキア時代に栄えた都市 (レバノン)

2005年1月24日(月)-14日目

 今日は青空。大雨の後だけに、太陽がことのほか有り難い。地中海沿岸を南下して、フェニキア時代に栄えた2つの都市を見学することになっている。フェニキアは、アルファベットの元になったフェニキア文字を使っていたことで知られる。

 途中、パレスチナの難民キャンプを車窓から眺めた。レバノンには12のキャンプがあり、33万人がキャンプ内の生活を余儀なくされている。1948年と1967年の中東戦争の時にレバノンに逃れてきたが、レバノンでは農業や建築作業の仕事にしか就けず、貧乏から脱却できない。もちろん、旅の日程に、難民キャンプ訪問は入っていなかった。

 まず、イスラエルとの国境までわずか17qのスールへ。スールへ向かう道路の両側には、オレンジやバナナ畑が続き、たわわに実をつけていた。きのう雪で道路が閉鎖されるかもしれないと心配した同じ国とは思えない。

 スールは、かつてはティルス(ヨルダン・シリア・レバノンの旅1の地図参照)と呼ばれ、BC11世紀には地中海でもっとも栄えたフェニキア人の都市国家(右)だった。BC1000年頃、フェニキアの王が、海中に高さ45bの砦を作った。およそ700年後のBC332年、この砦が、戦上手のアレキサンダー大王をも手こずらせ、征服に7ヶ月もかかった。アレキサンダーに滅ぼされたことで、フェニキア時代の遺跡は海に消え、今残っているのはローマ時代の遺跡。

 ティルスのローマ遺跡は、海側と陸側に分かれている。もともとは一体化していたが、邪魔物が間に入り、分離した形になっている。

 陸側の遺跡には、ネクロポリス(死者の町)、ヒポロドーム(馬車の競技場)、凱旋門や列柱道路など、ローマ時代の遺跡が転がっている。転がっているという表現は不適切かもしれないが、遺跡が多すぎるために、整備が間に合わないのだろう。

 ヒポロドームでの競技は、映画「ベンハー」でおなじみだ。時はローマ帝国時代。エルサレム地区の名家に生まれたベン・ハーは、親友メッサラに裏切られ、反逆罪で奴隷となってしまう。やがて彼はローマで開かれた戦車競技大会に出場し、メッサラと宿命の対決を迎える。 映画のハイライトシーンなので、目に焼き付いている。ベンハーがメッサラに勝った場面を思い出してしまった(左上)。

 海側にも、列柱道路(左)、ローマ浴場の跡、観覧席のあるプール跡が残っている。プールでは、泳ぐだけでなく、水上競技もやっていたらしい。

 海側の遺跡の端は、波しぶきがもろに被る。遺跡が塩水で痛まないのだろうか。見学している私たちにも、襲いかかるほどの高いしぶきだ。スマトラ沖地震の直後だっただけに、恐かった。

 海岸に紫貝を売る男がいた。「貝を売っているなんて子供だましだなあ」と思っていたが、説明をく聞くと、由緒ある貝なのだ。

 紫貝に熱湯を注ぐと、汁が紫になるので、染料に使われ、フェニキアの重要な輸出品になっていた。紫色をフェニキアと言っていたことから、フェニキアの語源になったという。それほど富をもたらした貝だった。

 昼食後に、同じ道を北上してサイダに着いた。ここも、かつてシドン(ヨルダン・シリア・レバノンの旅1の地図参照と呼ばれたフェニキア人の都市国家。

 フェニキアの遺跡は残っていないが、十字軍が島に作った砦は立派である。左写真は、砦から新市街を見た光景。空も海も光っていた。

 ここも波しぶきが高くて(右)恐かった。どうしても津波の被害を思い出してしまう。

 地中海というと穏やかな海のイメージがあるが、冬はこのように荒れる日が多い。クルーズ船が冬は就航しないのも、こうした荒海のせいだ。

 旧市街には、十字軍の教会、モスク、商人宿が残っている。サイダは菓子で有名な町だ。スークでは甘い菓子をたくさん売っていたので、味見をしたうえで、土産に買った(左)。このあたりは観光客が少ないのだろう。外国人だからと、ふっかける事もせず、気持ちよかった。

 スークに奥まった所に、パウロとペテロが初めて出会った場所に建てられた教会があった。2人が抱擁している絵(右)が壁に収まっていた。

 キリスト教が世界宗教になったのは、この2人のおかげだと言われる。どんな風にして出会い、どんな会話を交わして、意気投合したのだろうか。

 スークには、活動家のポスターや顔写真をベタベタ貼ってある店(左)が数軒あった。パレスチナ人の経営だという。対立しているイスラエルに近いせいか、パレスチナ独立を目指して活動している。今日で観光も終わりだから、余ったコインをカンパしたら、パンフレットをくれたが、読めやしない。

 ベイルートに戻り、鳩の岩付近ででサンセットを見た。海に沈む太陽もきれいだったが、ふと空を見上げると、満月が輝いている。ヨルダンのアンマンに着いたときは眉のような三日月だったが、今日は満月。中東で半月を過ごしたのだと、感慨深かった。

 別れ際に、政治学を専攻し、ジャーナリストを目指しているマリセルさんに聞いてみた。「イスラエルとの和平は来ると思うか」と。彼女はちょっと考えてから、悲しそうに首を振った。

 私達が中東で過ごした15日間は、表面上は平和だった。長いこと憧れていた地は、旅人を優しく迎え入れてくれた。しかし、帰国直後の2005年2月に、レバノンのハリリ元首相が暗殺された。昨日・2006年元旦の新聞には「ハリリ氏暗殺には、シリアのアサド大統領が関与していたことを、シリアの前副大統領が明言した」と載っている。

 今年の11月にはヨルダンの首都・アンマンのホテルで、アルカイダによるテロがあった。ヨルダンが親米ということで狙われたらしい。親米ということで狙われるなら、日本も危ない。どこにいても危険と隣り合わせなら、外務省の中止勧告が出ない地なら、行きたければ行くっきゃないという心境にもなる。
ベイルート発(20時15分)→

1月25日(火)-15日目ベイルート→ドバイ着(1時15分) ドバイ発(2時35分)→関空着(16時25分)
関空発(18時30分)→羽田着(19時35分) (ヨルダン・シリア・レバノンの旅 完)
(2006年1月2日 記)

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