中国シルクロードの旅
                <2005年4月18日(月)〜4月27日(水)>

 1.   絲綢(しちょう)之路
 2.   敦煌と鳴砂山
 3.  莫高窟
 4.  トルファンと高昌故城
 5.  ペゼクリフ千仏洞とウパール村
 6.  カラクリ湖
 7.  イスラムの街・カシュガル
 8.  クチャとタクラマカン砂漠
 9.  キジル千仏洞と楼蘭の美女
10.  中国のスイス・天池

中国シルクロードの旅 1
絲綢(しちゅう)之路

 「シルクロード」の名前が使われたのは1877年で、そう古いことではない。ドイツの地理学者リヒトホーフェンが、絹貿易のルートを、ザイデンシュトラーセン(ドイツ語で絹の道)と名付けたことに始まる。英訳でシルクロードになり、中国では絲綢之路(しちゅうのみち)と表記している。
 
 シルクロード研究の第一人者・長澤和俊氏の講演を聞いたことがある。シルクロードの定義を次のように話していた。「アジアとヨーロッパおよび北アフリカとを結んできた東西交流通路の総称である。ステップ路、オアシス路、南海路の3つのルートがあるが、一般的には、北緯40度前後のオアシス路をさすことが多い」

 今回は、中国シルクロードのオアシス路を行く旅である。2年前に、サーズ騒動が起こり、出発前日にツアーをキャンセルした。2年前とは別会社・H社のツアーに、似たコースがあったので、2005年4月に行ってきた。ところが今度は、反日デモ。出鼻をくじかれることばかり起こるコースだが、シルクロードで反日デモが起きるとは思えない。

 ツアーメンバーは、熟年夫婦が9組、母娘が1組、男性の1人参加3名、女性の1人参加2名の25名。「デモなんか恐くない、それよりシルクロードに行きたい」という人ばかりだった。


 
 上の地図は、H社のパンフレットに、訪れた日(赤い字)や隣国(黒い字)を書き込んだ。この地図を見ると、中国シルクロードの概要がおわかりだろう。中国の端に位置していて、モンゴル、キルギス、パキスタンはすぐそこだ。

 主な訪問地は、敦煌、ウルムチ、トルファン、カシュガル、タクラマカン砂漠、クチャ。敦煌以外は、新彊ウイグル自治区に属し、中国シルクロードの神髄を巡るツアーだ。

2005年4月18日(月)―1日目

12時55分 成田集合。普段は近くの駅から出る高速バスを利用しているが、ちょうどいい時刻のバスがなかったので、京成特急で上野から成田に向かった。

京成電車で隣に座ったのは、流暢な日本語を話す中国人の韓さん。1988年に来日して、慶応大学で学んだという。中国人労働者を日本の中小企業に斡旋する会社に勤めていて、空港まで労働者を迎えに行くところ。日本の習慣や簡単な言葉を覚えさせた後に、日本の会社に送り出す。中国人の給料は、10万円ぐらい。日本人は、こんなに低賃金では働かないが、中国人にとって10万円は魅力だ。韓さんから具体例を聞くと、日中の賃金格差が生むさまざまな矛盾を感じずにはいられない。

 成田発(14時55分)→中国国際航空で北京着(17時30分)。3時間35分の飛行。1週間前に大規模な反日デモがあった北京である。少し緊張したが、空港とホテルを往復するだけなので、隔離されているようなものだ。北京空港は3度目だが、立派な空港に変わっていた。2年前に完成したとか。オリンピックに向けて着々と準備が進んでいる。

 北京のガイドは、中年男性の張さん。中国には1億人もの張さんがいるそうだ。北京は、来るたびに豊かになっている。初めて中国を訪れた20年前に道路を埋め尽くしていた自転車は影をひそめ、自家用車がたくさん走っている。北京では3家庭に2.5台の割で、自家用車を持っているという。

 時間があるので街を歩きたかったが、ホテルは辺鄙な所にあるし、デモの最中だから、おとなしく部屋にいた。 <北京 華潤飯店 泊>

4月19日(火)―2日目

 今回のツアーは、非常に無駄が多い。敦煌までの直行便がとれなかったのか、北京から西安に飛び、再び乗り換えて敦煌に飛ぶ。その日のうちに、成田から敦煌やウルムチに着いてしまうツアーも多いので、丸一日損をしている。

 北京発(10時10分)→西安着(12時5分) 西安のガイドは、若い女性・殷さん。空港内のレストランで昼食。西安に来たのも3度目だが、3度とも空港が違う。

 初回は市内中心地に近い空港だった。2度目は、西安とは別の感陽市にあった。東京国際空港が成田市にあるようなものだ。今回は、2度目と場所は同じだが、立派な空港に変わっていた。「前の空港はどうしたの」と聞いたら「まだありますよ」と隣の古ぼけたビルを指した。

 左はアウディが展示してある空港ロビー。座っている中国人もあか抜けしている。空港の変遷は、中国の発展ぶりを如実に表している。

 西安空港での待ち時間は、7時間近くあるが、西安市内まで行く時間はない。個人旅ならいかようにもなるが、ツアーの場合は、冒険はしない。感陽郊外の農村を訪問すると事前に聞いていたが、殷さんが「農村には狂犬病の予防注射をしていない犬がいるので、お奨めできない。博物館に行きましょう」と言う。博物館より、農村に行ってみたかったが仕方ない。ガイドは、貧しい農村を見せたくなかったのかもしれない。 

 西安市内に、絲綢之路起点群像(しちゅうのみちきてんぐんぞう)が、シルクロードの出発地だった場所に、最近出来た。唐代に開遠門があった所だ。

 この像を見て出発すれば「さあ、難所へ向かうぞ」の気持ちが高ぶるに違いないが、希望は叶わなかった。半年後に「歩く会」(近所の友人と毎月歩いている会)の旅で西安と敦煌を訪れたので、Yさんに撮影を頼んでおいた(右)。シルクロードに向かう西域商人とラクダが彫られている。

 感陽市は渭河の北側にあり、前漢時代の皇帝11人のうち9人の皇帝の陵墓が、東西50キロにわたり並んでいる。陽陵(景帝)、茂陵(武帝)、長陵(劉邦)などお馴染みの皇帝だ。ちなみに、日本でいう前漢は、中国では西漢、後漢を東漢と言う。都の位置によってそう呼び分けている。

 陵墓は、1990年の空港道路建設時に発掘が始まったばかりの、新しい史跡だ。「この空港道路は、日本の援助で出来ました。みなさまのお陰です」と殷さんが話し出した。何度か中国に行っているが、今までそんな言葉を聞いたことがなかったので、驚いた。サーズ、反日デモなどで、日本人の観光が減っている。「少しご機嫌をとっておけ」という上層部からの命令かもしれない。「歩く会」の人達も「日本の援助で・・」の話を、何度か聞かされたという。

 前漢4代の景帝の陵墓・陽陵は空港から近いので、そこを見学した。陽陵と皇后陵に見下ろされるような場所に、漢陽陵考古陳列館がある。石碑(左)を見ると、中国の略字文化の一端がわかるかもしれない。「西漢帝陵 陽陵」と書いてある。西漢は、日本で言う前漢。漢と陽の字は、見当すらつかないほど略字になっている。

 博物館には、陪葬陵などから出土した侍女俑、兵士俑、動物俑(馬・牛・羊・山羊)などが展示されている。秦の始皇帝の兵馬俑が、実物より大きく作られているに反し、ここの兵士俑は、実物よりはるかに小さく、人形のようなものだ。

 兵士の身体は粘土製だが、腕は木、衣装は絹で作られたので、腕と衣装は腐ってしまった。だから、展示してある兵士は、腕のない裸体姿(右上)。始皇帝の兵馬達と違って、ユーモラスなのは、小さいうえに裸だからかもしれない。

博物館見学後は、発掘中の遺跡や、陪葬坑跡を歩いた。黄色い花が咲く原野のかたわらでは、農民がを耕している。墓とも思えない牧歌的な光景だった(左)。

 西安発は18時40分なので、その前に夕食。ツアーの嫌なところは、こちらのお腹具合など二の次。移動の都合に合わせられるから、たまったものではない。ところが、飛行機は1時間も遅れた。結局、西安発(19時40分)、敦煌着(22時5分)。ホテルの部屋に落ち着いたのは、次の日になろうとしていた。<敦煌 敦煌賓館泊>
(2006年1月16日 記)


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