ヨルダン・シリア・レバノンの旅  7
砂漠の中の城
 (ヨルダン)

2005年1月15日(土)-5日目

 昼食後に死海を出発し、北東方面に向かった。砂漠の中に点在する城を見学することになっている。

 まず、アズラク城に着いた。右は逆光で撮った城だが、廃墟の感じが出ていると自画自賛している。

 AD1世紀にローマ帝国の砦として使われたが、13世紀のイスラム時代に作り直した。イラクやサウジアラビアに通じる道の要所にあったので、ローマ、ビザンチン、ウマイヤ朝、マムルーク朝時代には繁栄していた。

 左写真は、アズラク城入り口。扉上部に穴(右)があいていて、敵が攻めてきた時は、上から熱い油を注いだという。

 「アリババと40人の盗賊」の盗賊たちは、壺に隠れていたところを、熱い油を注がれて皆殺しにされた。石油が豊富なアラブならではの発想だろうか。日本では思いつかない戦法だ。

 2階に、アラビアのロレンスが滞在した部屋がある。「ロレンスが滞在した」と聞くと、変哲もない部屋は、輝きを増す。アラブ解放戦争の時に基地として使っていたという。

 次は、アムラ城(クセイル・アムラ)へ(右)。クセイルは、キャッスルより小さい城を指す。名前のように、外見は、砂漠の中にぽつんと建つ寂しげな城だが、中に入ると寂しさは一転する。

 イスラム・ウマイヤ朝のカリフ・アブワリードが、715年に作った。ダマスカスとメッカを結ぶ巡礼の道の途中にあるので、メッカに向かう時の休憩所に使われた。

 規律の厳しいダマスカスを離れたカリフが、狩り・酒・音楽を楽しむための場でもあった。お楽しみの場に相応しく、天井まで鮮やかな壁画で埋め尽くされている。壁画の状態がいいので、世界遺産に指定されている。

 イスラム教は酒も偶像も禁止されているが、首都ダマスカスを離れれば、なんでも許されたらしい。ムスリムでない私には、到底理解できない。

 ふだん抑圧されているからの反動かどうか、裸体(左)も、たくさん描かれていた。偶像禁止ということで、バーミヤンの仏像が破壊されたのは、記憶に新しい。時代が違うとはいえ、他宗教の顔を破壊しておきながら、裸体像を楽しむのも変なものだ。

 これまで見たイスラム寺院内部の装飾は、幾何学模様のタイルがほとんどだった。クセイルアムラには、幾何学模様がまったくなく、狩りや音楽を楽しんでいる絵ばかりだ。当時の風俗を知るには、貴重な壁画だろう。

 右上は、浴室の天井に描かれた天体図。いわゆるトルコ風呂で汗を流しながら、ふと天井を見上げる。カリフ達の優雅な生活がうかがえる。

 主のいない城は、繁栄時代を聞かされても、たいして面白くないが、城のすぐ側に、ベドウィンが生活しているテントがあった。クセイルアラムも、こうして整備される前は、ベドウィンが暮らしていたという。壁画が煤で黒くなっているのは、その証だ。

 テントの中をのぞいたら、手招きしてくれた。謝礼を要求しないところがいい。持ち合わせのボールペンをあげたら、とても喜んでくれた。ツアーの場合は、「現地人のお宅訪問」とうたっていても、やらせっぽい場合が多いが、ここは予定になかったことで、実際の姿だ。なぜか女性がいない。外で働いているのかもしれないし、観光バスが来たので、隠れたのかもしれない。こんな時、語学が出来ないのは切ないものだ。

 夕方5時半ころ、首都・アンマンに到着。冬の日の入りは早く、5時半でも暗い。
<アンマンのメリディアンホテル 泊>

(2005年7月17日 記)

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