ヨルダン・シリア・レバノンの旅 8 (ヨルダン) 2005年1月16日(日)-6日目 今日の午前中は、首都・アンマンの見学である。アンマン空港到着は12日だったが、市内は素通りしていた。 アンマンは、BC1200年頃にアモン人の王国として栄えた。その後、ギリシャ、ローマ、ビザンチン、ウマイヤ朝と変遷するのは、この地域どこでも、ほぼ共通している。 アンマンは1925年から、トランスヨルダンの首都になった。アンマン城趾は、市内を眺望するには格好だ。160万人の都会だけあり整然としているが(右上)、壁も屋根もベージュ色で、埃っぽい感じがする。色を統一しているためだというが、緑が少ないので、色彩感が乏しい。 アンマン城趾には見るべき遺跡が少ない。ローマ時代のヘラクレス神殿などがわずかに残るだけだ。遺跡の少ない国なら、これでも目玉になるが、遺跡ばかりの国にとっては、修復する必要もないのだろう。左は、朽ちかけたコリント式列柱。 次は、考古学博物館見学。 日本とヨルダンの国交回復50年記念のヨルダン展が、世田谷美術館で2004年の11月7日まで開かれていた(左)。 目玉展示品は、この博物館所蔵のアインカザル出土の双頭の土人形だったが、2ヶ月後に、同じものに出会うことになった(右上)。世田谷博物館では撮影禁止だったが、ここは撮ってもいい。 アインカザルは、アンマン近郊にある新石器時代の都市遺跡。BC7300年〜ら6500年頃の遺跡だから、世界最古の人形(ひとがた)だという。人形は何体もあるのかと思ったが、双頭の人形は、どうやら一体だけだ。 他に見逃せないのは、1947年に発見された死海文書。羊皮紙や青銅板に旧約聖書の文献が残っている。見ただけでは何が何やらわからないが、非常に貴重な文献だという。 次に向かったのは、ローマ劇場(右)。BC2世紀のギリシャ時代に作られ、ローマのハドリアヌス帝の時代に改修された。600人収容できる。旧ローマ帝国内には、劇場が幾つ残っているのだろう。私でさえ、すでに数え切れないほど見ている。 市内見学を終え、北へ向けて走る。車窓からパレスチナ人の難民キャンプ・バッカキャンプを見た。難民キャンプはヨルダンだけで15あるが、最大のバッカキャンプには、17万人が住むという。こういう所こそ訪れてみたいが、もちろん見学地には入っていない。 ヨルダンは1948年と1967年に難民を受け入れたが、邪魔者扱いをしているのは明らかだ。劣悪な環境で暮らしているのだろう。大国の身勝手さで、長年住んでいた地を追い出されたパレスチナ人の苦悩は計り知れない。アラファト議長の死後、穏健派のアッバス議長が選ばれたが、イスラエルとの和平は来るのだろうか。 アンマンから北50キロにジェラシュ遺跡がある。東洋のポンペイと言われ、ヨルダンではペトラに次ぐ観光地。20%を発掘したにすぎないが、アラブに作ったローマ都市ではいちばん華麗で壮大だという。最盛期の人口は25,000人。きれいな遺跡なので、何枚も写真に収めたが、3枚だけ、ごらんいただきたい。左は、おなじみ円形劇場。中はアルテミス神殿の柱、右は列柱道路。 他にハドリアヌス凱旋門、ヒポロドーム(戦車競技場)、フォーラム(楕円形の柱で囲まれた広場)、ゼウス神殿、模擬海戦を行った劇場、カルマドキシモス通り(馬車がはまらないように、石畳が斜め)など、快適に過ごす都市機能が備わっている。 ヨルダン・シリア・レバノンの旅1へ 次(シリア入国)へ ホームへ |