ヨルダン・シリア・レバノンの旅 9
シリア入国
 
(シリア)

2005年1月16日(日)-6日目

 午後3時頃 シリアに入る。シリアのガイドは、ニダールさん(右)。添乗員によれば「シリアでいちばん良いガイド」。ヨルダンのジャミールさんはいかにもアラブ系の浅黒い顔だったが、ニダールさんの顔は、私が思い描いているアラブ系とは少し違う。色も白い。「アラブ系には見えないけど、人種がちがうの」と聞いてみた。「アラブだよ」と、あっさり言われた。

 ニダールさんは、ダマスカス大学の英文科を卒業。高校の英語教師だったが、ガイドに転職。政治に左右されるガイドは不安定のように思えるが、教師より良い仕事なのかもしれない。

 でも別れ際に、「次の仕事は1ヶ月後」と言っていたところをみると、観光客は少ないのだろう。15日間で、日本人のツアーには1度も出会わなかった。貸し切りかと思えるホテルもあった。季節が良くないこともあるが、やはりイラク戦争の影響だろうか。

 シリアは、1920年のサイクスピコ協定で領土が分割されるまでは、グレートシリアと呼ばれ、レバノン、トルコ、イラクの一部もシリア領だった。今の面積は、日本のほぼ半分にすぎない。西は地中海に面し、北東部にはユーフラテス川が流れている。今回の旅では、ユーフラテス川が見える地点には行かない。4大文明発祥の川だけに、いつか目にしたいものだ。

 人口は1800万人で、その半分が18歳以下という若い国だ。平均女妙は男64歳、女69歳。ヨルダンに比べれば高いが、日本とは格段の差だ。スンニ派のイスラム教が90%を占めるが、キリスト教徒も10%いる。

 シリアには、古代都市・ダマスカス、パルミラ遺跡、ボスラ遺跡。古代都市・アレッポと4つもの世界遺産がある。農業、鉱工業、商業のバランスがとれ、教育水準も高いが、イスラエルとの緊張関係による軍事費の支出が、経済発展を遅らせている。

 ヨルダンとの国境に近いボスラ遺跡を1時間見学。左は城塞の入口。ありとあらゆる場所に、アサド大統領の写真が飾ってあり、シリアに入国したことを実感する。

 午前中に、東洋のポンペイと言われるジェラシュ遺跡を見たばかりなので「又か」のお気持ちにもなるが、見なければ見ないで後悔するに決まっている。

 ナバティア人の南の都がペトラで、北の都がボスラ。ペトラと同じように、AD106年のトラヤヌス帝の時に、ローマの町が建設された。ローマ以後も聖地巡礼のルートになっていたために、繁栄していた。

 遺跡最大のみどころは、ローマ劇場。中東では最大規模だという。右は、記念写真を撮っているところを、高い観客席から撮った。劇場の大きさを実感していただけるだろうか。

 1124年に十字軍と戦ったときに、サラディーンらが、9つの見張り塔がある城塞で劇場を囲んだ。そのため、数回の地震にも耐え、保存率は95%を誇る。

 左は、城塞の外側に置きっぱなしのトラクターで、遊んでいる子供。いたづらっ子の微笑みは、万国共通。

 
ダマスカスに向かう車窓から、ゴラン高原から逃げてきた人のキャンプが見えた。ゴラン高原は、第3次中東戦争でイスラエルに占領されたまま。そのために、イスラエルとシリアは仲が悪い。もちろん、平和条約は結んでいない。国境でパスポートを入念に調べられたのは、イスラエルに入国していないかをチェックするためだった。

 7時頃、ダマスカスのホテルに到着。夕食は中華。まあまあの味。<ダマスカスのシャームパレスホテル 泊>

1月17日(月)-7日目-

 ヨルダンでは毎日晴天だったが、ダマスカス見学の今日は、曇り空。シリアの首都ダマスカスは、旧約聖書の頃から現在まで多くの人が住み続けるオアシス都市である。

 4000年もの歴史がしみついている町だけに、4.2キロの城壁に囲まれている旧市街は、まるごと世界遺産に指定されている。

 城壁は1世紀にローマ帝国により作られたが、今あるのは13〜14世紀に十字軍とモンゴル軍に備えて、アラブ人が作ったもの。7つの門がある。

 旧市街には、聖書ゆかりの教会があるかと思えば、中東最大のイスラム教モスクがある、赤と白の豆絞りスカーフを頭にまいた男性が道路を埋め尽くしている。この雑多な街に魅力を感じて、中東の国を何度も訪れる人がいる。もちろん私もそのひとりだ。

 左上は、ケータイで商談をしているアラブの商人。真剣な話しぶりと鋭い眼光から、友人との会話とは思えなかった。右上は、チャイ売りの男とベンチに座っている男。のんびりした雰囲気。
(2005年8月17日 記)
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