キプロス島とマルタ島の旅2
 南キプロスのニコシア

2014年2月28日(土)-3日目 

北キプロスはきのうの数時間滞在だけで、今日から3月2日までは南キプロスを回る。島の60%を占める南キプロスには、ギリシャ系キプロス人が住んでいる。2004年にEUに加盟。2008年にはユーロも導入している。

位置的には中東だが、EU加盟国となればヨーロッパだ。人口が90万人弱、四国の半分以下の面積。こんな小国がEUに入って大丈夫なのかと他国のことながら心配したが、案の定というか2013年3月に銀行の取り付け騒ぎがあった。

ユーロに入ったことで世界的なお金の流れに翻弄されている状態は、今も変わらない。シャッターを閉めている店もたくさんある。キプロス以外のギリシャ、スペイン、イタリアなどでも銀行への信頼が揺らいでいる。帰国後に見た新聞には、キプロス銀行の壁の落書き「EU(欧州連合)、IMF(国際通貨基金)、ECB(欧州中央銀行)のトロイカは出ていけ」の写真が載っていた。

左地図は、南北境界線で別れているニコシア。きのうはニコシアの北キプロスにあたる場所を訪れたが、今日はニコシアの南キプロスの部分を歩く。


まず城壁の外側にある考古学博物館へ。BC7000年頃の新石器時代からビザンチンまでの遺産が並び、見ごたえがあった。なかでも十字型女性像のポモスの偶像は、ニコシアの1ユーロコインに使われている。エジプトやギリシャの影響を受けた壺やローマの彫像など、この島がさまざまな民族に支配されていたことを思えば納得がいく。素焼きの塑像は、庶民の生活ぶりが想像できる優れもの。必見だと思う。

 
考古学博物館のポモスの偶像
ニコシアの1ユーロコインに使われている
 
エジプトやギリシャの影響
を受けた壺など
 
庶民の生活が想像できる塑像
お産の様子


ヴェネチア時代の城壁は4.5`で、11の砦がある。3つの門のうちいちばん大きいファマグスタ門から城壁内の旧市街へ。大司教宮殿や旧大司教宮殿(今は民族博物館)の外観を見ながら、聖ヨハネ教会に入った。「全面を覆うフレスコ画がみごとでしょう」とガイドは言うが、キリスト生涯の絵は正直言って飽きてしまった。

教会の隣にあるビザンチン美術館には、マカリオス大司教コレクションのイコンなどが200点もある。撮影は禁止だったし、思い出そうとしても画像が浮かんでこない。

ライキ・イトニア地区は、数ヶ月前に行ったアテネのプラカ地区とよく似ていて旧市街の雰囲気が残る。自由時間に歩いたが、垢抜けしない品物ばかりが並んでいるので、何も買わなかった。

 
城壁に3つある門のひとつ
ファマグスタ門

 
イギリスに支配されていた頃の名残
赤いポストがまだ使われている

 
旧市街のライキ・イトニア地区
アテネのプラカ地区と似ている


ニコシアから南に1時間ほど走ったところにあるレフカラ村で昼食をとった。レフカラ村はレースで有名だ。ヴェネチアの支配時代に技術がもたらされたという。1481年にレフカラ村を訪れたレオナルドダヴィンチが、この村のレースをミラノの大聖堂の祭壇に飾るために持ち帰ったほど優れたものだ。

ヴェネチアでは安い中国産に押されて、ハンドメードのレースは売れないと聞いたが、ここレフカラ村でも同じような悩みをかかえている。編みながら店番をしているのは、おばあさんばかりだった(左)。

国際自転車レースをやっていた。息子が自転車野郎なので、思わずシャッターを押した。

レフカラ村を出発したバスは西に走りコロッシ城に着いた。コロッシ城は、聖ヨハネ騎士団が1291年にイスラエルのアッコー陥落後に、本拠にした城である。騎士団は砂糖やワインも作った。輸出したワインはコマンダリア(騎士団長)として知られ、今でもその名のワインが作られている。わが家でも2本買った。

 
ヨハネ騎士団の城だった
コロッシ城


 今は廃墟になっている
でもコマンダリア(騎士団長)ワインの
名は残っている
 
コロッシ城の屋上から見た
ぶどう畑


ヨハネ騎士団は1310年にロードス島に移ったが、城は騎士団長の所有物になった。廃墟ではあるが、石で造られた城は何かしら残っているので、観光に耐えうる。屋上から見たブドウ畑や木々が春の息遣いを見せていた。

宿泊地パフォスに行く途中で、アフロディーテ(ビーナス)誕生の海岸を上から眺めた。  

   <パフォスのアクアマーレ泊>      (2015年3月16日 記)


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