キプロス島とマルタ島


2014年2月26日(水)〜3月7日(木) 


北キプロス 
南キプロスのニコシア
パフォスとリマソール
トロードス山地
マルタ島のヴァレッタ
マルタのラバトとイムディーナ
ゴゾ島とヴァレッタ


キプロス島とマルタ島の旅1
北キプロス

2014年2月26日(水)-1日目

羽田(19時55分発)→関西空港(21時15分着) 
関西空港(23時40分発)→エミレーツ航空で翌日ドバイ(朝の5時25分着)  約11時間のフライト

2月27日(木)-2日目

ドバイ(8時10分発)→エミレーツ航空でキプロスのラルナカ(11時10分着) 約4時間のフライト

キプロスとマルタ(左地図)を訪ねるE社のツアーに参加した。キプロスとマルタは同じ地中海にある島国だが、飛行機で3時間以上離れているし、政治的な繋がりもない。旅行社の都合でこの2か国を組んだにすぎないが、両方とも行ってみたい国だった。

ドバイでは定時に機内に乗り込んだのに、離陸するまでに1時間かかった。スーツケースの積み込みに時間がかかっていたようだ。ところが、ラルナカ空港に下りてみると50個以上のスーツケースが届いてなかった。ツアーの仲間2人の荷物もこの50個に含まれていた。

ドバイからキプロスまでは3日に1度しか飛ばず、荷物到着は3日後になるという。「必要なものは現地で買え」と言うが、キプロス人と日本人では体格が違う。男性のYさんも女性のKさんも細身なので、身体にあうものがない。

離陸が1時間遅れたうえに、積み残しの処理に(なんせ全体では50人もいる)1時間もかかり、キプロスのガイドに会えたのは、予定の2時間も遅れた。時間ぎりぎりの観光をしている私たちには、昼間の2時間の遅れは痛い。「金持ちの国ドバイの空港なのに、従業員の質が悪い」と、皆でブツブツ。言ったところで、時間のロスを弁償してくれるわけではない。

キプロスは四国の半分しかない。とはいえ、地中海ではシチリア島、サルディニア島に次ぐ第3の島。

フェニキア、ギリシャ、ローマなどに支配された後、1192年にリュジニャン王朝がキプロス王国を作った。1489年にはヴェネチアに、1572年にはオスマントルコに、1879年にイギリスに支配された。独立は1961年。

イギリスの支配から脱した時に、トルコに帰属するか、ギリシャに帰属するかもめたあげく、複合民族国家としてスタートを切った。ところがそれから10数年後の1974年に南北分断という最悪の結果になった。当時はキプロス紛争が世界的に報じられていたので、キプロスの名前はこの時に覚えた。複合民族国家の複雑さを感じないわけにはいかない。

旅行会社のパンフレットには南北キプロスとなっているが、南キプロスや北キプロスという国はなく、正式名称は南がキプロス共和国、北は北キプロス・トルコ共和国。ここでは便宜上南キプロス、北キプロスとする。ギリシャ系が住む南キプロスの面積は60%、トルコ系が住む北キプロスの面積は37%、ほかにもとの宗主国イギリスの敷地が3%ある。

空港のあるラルナカ(上の地図参照)を出発したバスは、高速道路で北に向かう。キプロス島にいる間のガイドはポピさん。地味だがしっかりした女性だ。

首都のニコシア郊外にあるチェックポイントでパスポートチェックがあり、北キプロスに入った。1974年、キプロスのギリシャ系右翼がギリシャの軍事政権と結託してクーデターを起こした。これを契機にトルコ軍が侵攻して島の北部37%を占領した。

1983年に独立を宣言したが、トルコしか独立認めていないので他の国との貿易はできない。そのせいか、南キプロスにくらべずっと貧乏だ。住民のほとんどがトルコ人で、トルコリラを使っている。国旗もトルコとそっくりの、白地に赤い星と月のマークがついたもの。トルコの英雄アタチュルクの銅像も立っている。

トルコの一部になった方がいいのにと思わないでもないが、北キプロスにも自負があるのだろう。

分断状態は今も続き、緩衝地帯のグリーンラインでは国連平和維持軍が監視している。分断直後は南と北の行き来は出来なかったが、2004年以降チェックポイントで手続きすれば往来が可能になった。韓国と北朝鮮の国境が、いまだに閉ざされていることを思えば、まだマシかもしれない。

チェックポイント通過後、キレニア山脈の峠を越えて、ギルネ(ギリシャ名ではキレニア、上の地図参照)に着いた。空港があるラルナカは島の南の海に位置しているが、ギルネは島の北の海に面した街。トルコのタシュジュという港からは70`しか離れていない。

 
キレニア城
 
右がトルコの左が北キプロスの旗
 
高いところから見た城


まずキレニア城に行った。この城を最初に築いたのは9〜10世紀のビザンチン時代。イスラムの海賊から島を守るためだった。12世紀のリュジュニアン王朝によって拡大され、15〜16世紀のヴェネチアによって完全に要塞化された。しかし、1572年にオスマン帝国に征服されて開城にいたった。

石橋を渡って城の内部に入った。入口にある獅子と十字架はキプロスとリュジュニアン朝の紋章だというが、初めて耳にするリュジュニアンなる王朝がなんなのか分からない。ガイドのポピさんが補足してくれた。「十字軍の落ち武者のフランス人騎士の王朝です」

キレニア城に隣接して沈没船博物館がある。キレニア沖で1965年に発見されたギリシャ貨物船(左)。アレッポ松の材木などからBC300年ころのギリシャ船だと分かった。両手つきの壺が400個、中にはオリーブやワインが入っていたらしい。アーモンドも9000粒が見つかった。2300年以上前の沈没船は、私たちをワクワクさせてくれる。

次はベッラパイス修道院(左下)へ。1187年にエルサレムが陥落したときに逃げてきた修道士が移り住んだ。今見る修道院のほとんどは、リュジュニアン王朝のユーグ3世が13世紀に再建したもの。キプロスでもっとも美しい建造物と言われる。

トルコ支配になると、カトリックからギリシャ正教になり修道院は廃墟に。でも教会はずっと使われた。修道院の入口には敵が来た時に襲撃する「石落とし」があった。城にはよくある装置だが、ここは修道院。なんだか不思議。

到着が2時間も遅れたので、城も修道院も閉まってしまう。昼食もとらずに2か所の見学をすませ、昼食にありついたのは4時ちょっと前だった。羽田を出発してから3つの飛行機を乗り継いだ。なにがしかの食事や飲み物が出るので、お腹の時計は狂っている。

私はさほど空腹を感じなかったが、久しぶりに広いテーブルで食べた食事はおいしかった。これから何度も出ることになるメザ(前菜小皿数種)、魚、菓子、ワインなど。

遅い昼食後、キプロスの首都ニコシア(上の地図参照)に入った。王冠型の城壁はヴェネチア時代に作られたもので、グリーンラインで北と南に真二つに分かれている。ドイツが東西に分かれていた頃のベルリンみたいなものだ。

まず北のキレニア門から城壁の中に入った。アタチュルク広場には、トルコ近代化の父・アタチュルクの大きな像がある。スレイミーヤモスクというモスクまである。隊商宿を利用したショッピングモールもある。ここはトルコ?と錯覚してしまう一画だ。

でもこのモスクの外観は、フランスのゴシック様式。十字軍として滞在していたフランス王ルイ9世が建てた教会だった。その後オスマン勢力に征服されてからモスクに改装し、2本のミナレットを付け足した。中に入ってみれば、ミフラブ(メッカの方向を示す)や説教壇があり、モスクそのものだ。

 
スレイミーヤモスクの内部
外観はゴシック様式の教会だが
内部はモスク


 トルコなどでよく見る
隊商宿
今はショッピングモール
 
北キプロスの家のドア

チェックポイントを歩いて南キプロスへ。パスポートの提示すらなく、あっさりと通してくれた。南北両方のガイドがいるからであって、個人旅行なら簡単にはいかないのかもしれない。

南キプロスに入ったとたん、街並みが賑やかになる。歩行者専用のリドラ通りを歩きバスに乗車。ニコシアのホテルに着いたのは6時を過ぎていた。私たちは夕食をパスした。

長時間のフライトのあと、そのままの観光。食事時間も滅茶苦茶で胃も疲れている。食べないですぐ寝たのは正解だった。<ニコシアのホリディイン泊>       (2015年3月2日 記)

 
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