キプロス島とマルタ島の旅5 
 マルタ島のヴァレッタ

2014年3月3日(月)-6日目

キプロスのリマソールのホテルを出て50分。ラルナカの国際空港に到着した。今日はマルタに向かう。

ラルナカ(12時5分発)→エミレーツ航空でマルタ(13時55分着) 時差が1時間あるので約3時間のフライト

キプロスとマルタは、同じ地中海の島、同じEU加盟国なのに、なぜか入国手続きに時間がかかった。ヴァレッタの観光が始まったのは、午後3時になっていた。マルタ島3日間のガイドはマルタ人と結婚して30年になる日本人のtomokoさん。現地に長年住んでいる日本人ガイドの中には、見下すような態度をとる人もいるが、tomokoさんは温かみを感じる女性だ。

「1997年から日本人観光客が増えました。イギリス人やドイツ人はたくさん来てくれますが、長く滞在してもほとんどお金を使いません。“日本人はたくさんお金を落としてくれるので大歓迎”と新聞にも載ったんですよ」と彼女は言う。今でも日本人はたくさん土産物を買うのだろうか。

マルタ島の地図マルタ島は淡路島の半分ほどの狭さだが、れっきとした独立国。この島には紀元前4500年頃の遺跡もあり、7000年の歴史がつまっている。フェニキア、カルタゴ、ローマ、ビザンチン、アラブ、ノルマン人の時代を経て、ヨハネ騎士団の時代になる。その後はフランスやイギリスに支配され、独立したのは1964年。EU加盟は2004年、ユーロ導入は2008年とキプロスと同じ。

マルタ島に行ってみたいと思ったのは、ギリシャのロードス島に行った時にヨハネ騎士団の話を聞いたからだ。ヨハネ騎士団は、移り住んだ土地にちなんで、ロードス騎士団、マルタ騎士団とも言われるが、ややこしくなるのでこの旅行記ではヨハネ騎士団と記す。

ヨハネ騎士団は、1113年に洗礼者ヨハネを守護聖人とした騎士団が許可されたことに始まる。でも、1310年にはパレスチナを追われ、キプロス島を経てロードス島に本拠地を移した。そのロードス島も安住の地ではなかった。オスマントルコとの戦いに敗れ、1522年にロードス島からマルタ島に移った。

ヨハネ騎士団のテント1530年にマルタに流れ着いた騎士団は、4か月に及ぶオスマントルコとの攻防戦で、マルタを守り抜く。それから約270年、騎士団は1798年にナポレオンに追放されるまでマルタを拠点にしていた。パレスチナ→キプロス→ロードス島→マルタ島と転々した騎士団は、現在でも続いている。1834年にローマ市内に本部を設置。領土はないけれど主権があるとして国際的にも認められている。

ローマのコンドッティ通りで「ここがヨハネ騎士団の本拠地」と聞いてから20年以上経つ。スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラでも、マルタ十字のテントを見たことがある(左)。巡礼の道を歩き続けた人のための医療テント。今でも救急活動や福祉活動で活躍しているのは、本当だった。

鎌倉時代の武士団が、形を変えて存続しいるようなものだ。十字軍の頃のヨハネ騎士団が今も各地で活躍しているのは、キリスト教の奥の深さかもしれない。

まずマルタ共和国の首都ヴァレッタ市内(上の地図参照)観光。1566年に騎士団長ヴァレッタによって建設されたので、ヴァレッタという。スリーシティーズに拠を置いていた騎士団は、再びオスマントルコ軍に襲われた。もっと強固な城塞都市を作る必要に迫られて作ったのがヴァレッタだ。当時の最新技術を駆使して作りあげた計画都市で、碁盤の目のようになっているので分かりやすい。城塞都市でありながら優雅な感じがするのは、カトリックの国の富を集めて作られた街だからだろう。

カーニバルの仮装をした人たちや観光客で道路は埋め尽くされていて、迷子になりそうだ。仮装の人たちの写真を撮りながらも、はぐれないようにtomokoさんに従う。カスティーリャとポルトガルの騎士団の館だった建物は、今は首相官邸。カスティーリャとポルトガルの騎士団の他に、プロヴァンス・オーベルジュ・フランス・イタリア・アラゴン・イングランド・ドイツと言語別に8つの騎士団があり、それぞれの館があった。

マーチャント通りを歩き騎士団長の館に着いた。1574年に建設されたもので、今は大統領府と国会議事堂も兼ねている。騎士団長の館と聞くと、少し粗末なたたずまいを想像するが、ここは王様が住む宮殿のように立派だ。キリスト教諸国や法王庁の寄付、騎士団員の親からの寄付などで、資金は潤沢だったことが分かる。

騎士団長の館 騎士団長の館 騎士団長の館
 
廊下に並ぶ甲冑

騎士団長の肖像画
 

赤の間とも言われる大使の間
 


小さいときに騎士が活躍する話に心ときめかした私は、廊下に並ぶ本物の甲冑を見ただけでワクワクする。歴代の騎士団長の肖像画がかかっている部屋、食堂、舞踏会広間、陶磁器がたくさん置いてある部屋などいくつもの部屋を見て歩いた。カーニバルのせいなのかいつものことなのか分からないが、どの部屋も混み合っていた。

tomokoさんが興奮気味に素晴らしさを強調したのが、タペストリーの間。フランスの国立ゴブラン織物所で制作した「新世界の動植物」などが、非常に素晴らしいらしい。でも保護のために部屋は薄暗いし、離れた場所からの見学なので、tomokoさんの感動は私には届かない。

聖ヨハネ大聖堂次に訪れたのは聖ヨハネ大聖堂(左)。1573年に作られた当時は質素な聖堂だったが、コットナー団長が私費で豪華なバロック様式に改築した。8つの騎士団それぞれの礼拝堂があり、豪華さを競っている。見物する身には楽しいけれど、神々しさには欠けるような気がする。

大聖堂に付属する美術館には、カラヴァッジョの「洗礼者ヨハネの斬首」などの大作が飾ってある。殺人をおかして逃走中のカラヴァッジョは、1607年7月から翌年の10月までマルタに滞在。「聖ヒエロニムス」は、カラヴァッジョを騎士として受け入れてくれた団長や資金援助してくれた人に感謝して描かれた絵。

レパブリック通りを歩き、カーニバル会場のレパブリック広場に向かった。カーニバルの名は聞いたことがあるが、見るのは初めてだ。

謝肉祭とも言われるカーニバルはカトリックのお祭りで、復活祭の40日前に行われる。リオやヴェネチアが有名だが、カトリックの国では大なり小なりやっているらしい。復活祭までの40日間は肉や魚を食べてはいけない日もある。Tomokoさんは、うっかりとこの期間にハム入りのサンドを子供に持たせてしまい、いじめられたこともあったという。

広場には仮設ステージやスタンドが用意してあり、私たちは椅子席で見学した。ステージでは、チームごとにダンスを披露。動作がぎこちないチームもあれば、迫力満点のチームもあるが、仮装した出演者は、観客などおかまいなし、自分たちの世界に浸って楽しんでいる。ステージが終わると街中に繰り出していった。正直言って、カーニバルは期待外れだったが、一度も見なかったら後悔するに決まっている。

カーニバル カーニバル カーニバル
 
カーニバルに参加する子どもたち
 
大人のコスチュームは
一段と華やか
 
夜のパレード

路地観客席で、オーストリーとアイルランドの添乗員だったE社のSさんに会った。今回参加したツアーもE社なので、添乗員さんたちは、この場で一緒になることは分かっていた。何も聞いてない私はちょっと驚いた。同じ添乗員に3度も出会うのは珍しい。

見物を途中で抜け出して、ヴァレッタ市内のレストランで食事。雨が降り出したが、お祭りの夜は続いている。雨に濡れた中世の歩道は実に魅力的だ。左写真は、レストランがあった路地。暗い路地の雰囲気がよく撮れたと思っている。

ホテルはヴァレッタからかなり遠いセントジュリアンにあり、バスで30分ほどかかった。

<マルタのラディソンホテル泊>         (2015年5月2日 記)

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