キプロス島とマルタ島の旅 6 
 マルタのラバトとイムディーナ

2014年3月4日(火)-7日目

今日は、ヴァレッタ以外のマルタのみどころを回ることになっている。まず向かったのはラバトとイムディーナキプロスマルタの旅5の地図参照)。ラバトは、BC2世紀からローマ人の町として栄えていて、ローマ時代は今の3倍の大きさだった。870年に、アラブ人はイムディーナ(城壁の街)とラバト(城壁の外)を分割した。アラブ人の支配はその後200年ほど続き、マルタ語の70%はアラビア語に由来する。

ラバトを徒歩で回るためにバスを降りると、爺さんたちが群れていた。ガイドのtomokoさんが言うには「暇なんでしょうね。いつも集まってしゃべってますよ」。なぜか婆さんはいない。

1530年代建築の騎士の邸宅を外観だけ眺める。出窓にのぞき穴があり、ドアノブもやたら大きい。1686年建設した聖パウロ教会も外側だけの見学。聖パウロが、西暦60年にここの洞窟に身を隠してマルタで布教したことにちなむ。洞窟も残っているらしい。

色とりどりの出窓が突き出しているラバトの路地はそれだけでも風情があるが、聖ヨセフの祝日(3月19日)の飾りがカトリックの国の雰囲気を出していた。

ラバトの路地 ドアノブ イムディーナ

窓が突き出している
ラバトの路地

 

ラバトの騎士の邸宅
ドアノブが大きい
 
 
要塞都市イムディーナの遠景
以前はマルタの首都だった

イムディーナはフェニキア人によって要塞化された。マルタの首都として栄えたが、1570年ころに首都がヴァレッタに移った後は、寂れていく。寂れたとはいえ、城塞都市としての魅力は十分ある。広い濠にかかる橋を渡るとメーンゲート。静寂の町とも言われるだけあり、住民の姿はほとんど見かけないが、騎士団長の館(今は自然科学博物館)や聖パウロの大聖堂やノルマンハウスなど重厚は建物が残っている。いずれもマルタストーンと呼ばれる黄褐色の石造りだ。曲がりくねった細い路地に入りこむと、そこには中世のマルタがある。

青の洞窟次は海岸に移動。ブルーグロット(青の洞窟)へ。青の洞窟はナポリが有名だが、ナポリでは大雨のために見物できなかった。ところが今日も青の洞窟に嫌われてしまった。天気は悪くないのだが、風も波も高い。崖の上から眺めただけだった(左)。

ブルーグロットから海岸線をしばらく走り、昼食場所の漁村・マルサシュロックに行った。町の名前はフェニキア語で「暖かい南風の港」という意味。港には、マルタのガイドブックでよく見る目玉の魔除けがついた船がたくさん停泊していた。

ところで「ヤルタからマルタへ」のキャッチフレーズをご存知だろうか。「ヤルタから」のヤルタ会談は、私たち世代には馴染みがある。東西冷戦を決定づけたヤルタ会談は1945年1月30日から2月3日にクリミア半島のヤルタで行われた。

「マルタへ」のマルタ会談は、1989年12月2日から3日に行われた。マルタは第二次大戦後、社会主義でもない資本主義でもない中立の立場をとっていたので、会談の場にはふさわしい。

マルタの海上で開かれたと聞いていたので、tomokoさんに「マルタ会談が開かれたのはどこですか」と聞いたら、このマルサシュロックのすぐ近くのマルサシュロック湾内だという。オスマントルコ軍もナポレオン軍もこの湾から上陸したというから、大型船がつけやすい湾なのだろう。

マルタ会談「海辺に会談の記念碑は建っています。でも会談はソ連船で行われたので、建物はありません。この日は大嵐だったので両首脳が船酔いしないかと心配でしたよ。日本の報道関係者も200人ぐらい来て、FAXの取り合いがたいへんでした」とtomokoさんはこの日をよく覚えていると話してくれた。

ソ連のゴルバチョフとアメリカのブッシュ(父)の会談は、東西冷戦を終わらせた会談として、今は中学校の教科書(左)にも載っている。

冷戦の始まりでもあるヤルタ会談と冷戦の終わりを象徴するマルタ会談。その両方の場を見ることができたのは、感慨深い。tomokoさんはマルタ会談が教科書に載っていることはお客さんに聞いているが、教科書を見たことがないという。帰国後にスキャンして送ってあげたら喜んでくれた。

次は内陸部に入り、ハル・サフリニエ・ハイポジウムという地下墳墓を見に行った。1902年に偶然発見され、7000体以上の骨が発見された。時もBC3500年からBC2500年。「エジプトのピラミッドより古い」だけあり、もちろん世界遺産だ。墳墓を守るために1時間に10人しか入れない。私たちのツアーはわずか13人なのに二手に分かれた。個人ではなかなか予約がとりにくいらしい。

「眠れる婦人像」が発見された穴や、三石門、至聖所、大広間、貯蔵庫・・を見て歩くが、薄暗い地下だから、装飾の渦巻き紋などもはっきり見えない。「地下の岩盤を石器で堀ったんです。地下は3層になっていて38の石室があります」の説明があった。考古学的には価値があるらしいのだが、同じ地下都市ならトルコのカイマクルの方が面白いし、同じ墳墓でもエジプトのピラミッドの方がずっとワクワクする。撮影禁止だったので写真もない。

隣接するタルシーン神殿はBC3600年からBC2500年ごろ建設された巨石神殿。1000年間で、中央の6室からなる地母神形の中央神殿が建設された。ここも1914年に農民が偶然発見した。巨石については、どうやって切り出したのだろう、どうやって運んだのだろう、どうやって組み立てたのだろうなど、さまざまな疑問が湧いてくる。5000年以上前の人たちの英知に素直に感嘆する。水玉装飾や渦巻き模様がある巨石やファットレディ(地母神の肥った女性像)像もあるが、いずれもレプリカで、本物は考古学博物館に展示。

タルシーン神殿 眠れる婦人像
 
BC3600年〜2500年頃のタルシーン神殿
巨石で囲まれた部屋が残っている

 
ヴァレッタの博物館にある眠れる婦人像

考古学博物館はヴァレッタにある。いったんホテルに戻ったあとに、希望者で博物館に行った。バスは通っているが時間がかかるので、タクシーに分乗した。遺物が並んでいる博物館は興味がないと退屈な場所だが、実際に遺跡を見てきた後だけに、いつになく心に残った。幸い撮影してもよかったので、有名な「眠れる婦人像」や渦巻き紋動物が彫られた石をしっかり写してきた。BC3500年のものを目の前で見る幸せを感じる。

今日の夕食はホテルでのディナーだった。半分の方はおめかししていたが、博物館に行った私は着替える暇がなかった。   <マルタのラディソンホテル泊>    (2015年5月16日 記)

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