キプロス島とマルタ島の旅7 (最終回)
 ゴゾ島とヴァレッタ

2014年3月5日(水)-8日目

マルタ共和国に属してはいるが、別の島のゴゾ島キプロスマルタの旅5の地図参照)に行く。マルタ島の西端にあるチェルケウア港からフェリーに乗船。途中、コミノ島という小さな島を通過。夏はリゾート客でにぎわうらしいが、閑散期の今は2世帯だけが暮らしている。

ゴゾ島の面積はマルタの3分1程度。人口3万人に15の教区教会がある。曇り空なので、海の色が青く見えないのが残念だ。

ミニバスに乗ってジュガンディーヤ巨石神殿に行った。きのう見たタルシーン神殿と同じ頃(BC3600年〜BC2500年)の建設。巨人女性のサンスーナが作ったとの伝説から、巨人を意味するジュガンディーヤと呼ばれている。最大の石の重さは57トン。巨石運搬に使ったと思われるコロ丸石なども残っているから、石切り場から運んだのだろう。

円形の小部屋がいくつか合わさって全体としては地母神形。豊穣神崇拝の施設だったと考えられる。石だけの神殿跡は寂しいものだが、黄色い野の花(オキザリス・春菊・菜の花)が彩りを添えてくれる。

巨石神殿 アズレウインドウ
 
BC3600〜2500年頃の
ジュガンディーヤ巨石神殿

 
風と波の浸食で作られた
アズレウインドウ

次はアズレウインドウを見に行った。マルタのブルーノットと同じく、長い間の風と波の浸食で作られた岩。高さ20m、幅100m、奥行きが40m。青い海に浮かぶ奇岩は絵になるが、波しぶきが高くて近寄るとさらわれてしまいそうになる。tomokoさんが「危ないから早く戻って〜」と声を枯らしていたが、波の迫力を見たい人、撮影したい人はギリギリまで波と岩の景色を楽しんでいた。夏の地中海やエーゲ海は穏やかだが、冬や春先は荒れるらしい。

チタデル次はゴゾ島中心都市ヴィクトリアの名をとったヴィクトリア・チタデル(左)を見物。もともとゴゾ島住民が避難するための城塞だったが、1551年にトルコに襲われた時は、逃げ込んだ島民が連れ去られてしまい役に立たなかった。その後ヨハネ騎士団が補修した。マルタ名はラバトだったが、イギリスに統治されていた時にヴィクトリアに改名。

チタデルの門をくぐると大聖堂や司教館、裁判所がある。朝から天気は良くなかったが、チタデルを見学しているときが最悪だった。折り畳み傘など役立たないほどの風も強くなってきた。雨が激しくなったので、入場する予定がなかったゴゾの大聖堂へ。古い教会が1693年の地震で崩れたあとに1697年から再建。ドームを作る予算がなかったので、だまし絵でドームのように描いた。説明を受けなければだまし絵だと分からないが、いびつに見える場所もある。でもここにはパウロ2世が訪れている。聖堂前には彼の大きな銅像があった。

天気がよければチタデルでゆっくり過ごすところだが、悪天候だから早くマルタに戻りたいと皆が言い出した。予定していたフェリーより早い便で帰ることにした。

皮肉なもので、マルタ島の港に着いた3時半頃には青空が見えてきた。これからヴァレッタを自由に歩こうと思っている私には、早く帰ってきたことも青空も嬉しい。

ホテルに荷物を置いてすぐ、添乗員のMさんとお仲間のHさんと私達4人でタクシーでヴァレッタに行った。ホテルからヴァレッタまでは、タクシーで片道20ユーロもかかる。4人で割るからたいしたことないが、ホテルと繁華街が離れているのは不便だ。

ヴァレッタは到着日に主なスポットとカーニバルを見物したが、混み合っている街をガイドの後をついて歩いただけだ。きのうは考古学博物館を見たに過ぎない。地図を見ながら勝手に歩いてこそ、ヴァレッタが自分のものになる。

まず、アッパーバラッカガーデンに行った。ここからは対岸のスリーシティーズがよく見える。添乗員のMさんは実によく勉強していて優秀な人だ。たいていの添乗員はプリントを読むだけだが、彼女は自分で理解しているので説明がわかりやすい。

スリーシティーズ アップダウンの多い街 聖エルモ砦

対岸のスリーシティーズ(3つの町)

 
 
ヴァレッタはアップダウンが多い街

突端の聖エルモ砦

 

「ヨハネ騎士団が最初に住んだのはヴァレッタではなく、スリーシティーズだったんですよ。オスマントルコと戦ってマルタを死守した場所は、対岸に見える3つの町です」とMさんが教えてくれた。ヴァレットより古いだけあり、マルタストーンの重厚な建物が印象的だ。魔除けの目玉がついた見張り台もよく見えた。「この景色を見なければ、ヨハネ騎士団のことが分かったとは言えないよなあ」と、満足した。かなうことなら、スリーシティーズを歩きたかった。

 「要塞で囲まれた街を実感するために、突端のエルモ砦まで海辺を歩きたい」と添乗員さんに話した。添乗員さんはフリータイムに付き合う義務はないのだが、ヴァレッタをもっと知って欲しいという気持ちゆえか、付いてきてくれた。「坂がけっこうきついんですが、大丈夫そうですね」と言いながらグランドハーバー沿いを歩く。きのうおとといは気づかなかったが、たしかにアップダウンがある街だ。それだけに、高い所から見た出窓のある建物がくっつきそうな路地の風景には、心が躍る。

カフェ突端にある聖エルモ砦まで行き、帰りは中心の通りを歩いた。おとといのカーニバル会場は、嘘のように静まり返っていた。カーニバル会場に面している騎士団長の宮殿は、国会議事堂も兼ねている。今日は国会があるらしい。テレビ局が、入っていく議員らしき人にインタビューしていた。

洒落たカフェやレストラン、ブティックなどが連なるマーチャント通りをぶらぶら歩く。今日の夕食は自由に食べろということだが、レストランに入るほどお腹はすいてない。1837年から続く老舗カフェ(左)でパンを買ってホテルで食べることにした。          <マルタのラディソンホテル泊>

3月6日(木)-9日目

12時までは自由時間。ホテルがあるセントジュリアンは、立派なホテルが何軒も建つ海辺の街だ。でも史跡があるわけでもなし、買い物もしたくない、海を見ても仕方ない。「バスに乗ってみたい」と私がつぶやいたことを忘れなかった添乗員のMさんが、バスに乗って隣町のスリーマ―に行こうと提案してくれた。「スリーマ―に行けばヴァレットの全容も見えるから」の薦めに従って5〜6人が参加した。

ホテルの近くからバスは頻繁に出ている。バス代はわずか1.5 ユーロ。しかも一定の時間内であれば、乗り換えも可能。マルタは観光都市だけありタクシーなどが高いなと思っていたが、市民は暮らしやすそうだ。きのうの悪天候と違い、今日は朝から青空が広がっている。スリーマ―の海はキラキラ輝いていたし、対岸のヴァレットも逆光ながらよく見えた。丸屋根の聖パウロ寺院と先頭のあるカーマライト教会のシルエットがきれいだ。

聖パウロ寺院とカーライル教会 プロパン売り イヌのフン入れ
 
対岸のヴァレッタ
聖パウロ寺院とカーマライト教会

 
プロパン売りの車

 イヌのフンをいれるバスケット


音楽を奏でながら、プロパン売りの車も通った。音楽でプロパン屋が来たことを知る。この国では都市ガスはないのかなあ。イギリス統治時代の名残である赤いポストを見たり、犬のフン入れのバスケットを見たり、やっぱりブラブラ歩きは楽しい。

マルタ国際空港の出国手続きには、日本人の若い女の子が来てくれた。「こちらの会社に勤めています。日本人のお客さんが多いので、忙しいんですよ」と話していた。地中海の小さな小さな島でも、若い女性が働いている。グローバルな時代なのだなとつくづく思う。

マルタ(14時45分発)→エミレーツ航空でキプロスのラルナカへ。 ラルナカ(19時30分発)

3月7日(金)-10日目

ドバイ(1時10分着)  ドバイ(3時発)→エミレーツ航空で関西空港(16時50分着)

何時間もかかり、日本に戻ってきた。ところが、関西空港でまた事件が起きた。仲間の7人、つまり半数の荷物が届いていなかった。7人の中には行きの荷物が着いてなかったKさんとYさんも含まれていた。幸い私達の荷物は無事だった。関空から自宅に荷物を届けてもらうつもりだった人は、代金がかからなくて済んだともいえるが、ドバイの空港のいい加減さには心底あきれてしまった。

関空ではカード会社のラウンジで時間をつぶし、久しぶりに日本の新聞を読んだ

関空(19時55分発)→羽田(21時10分着)                (2015年6月2日 記)

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