北スペインの旅 3 2010年8月23日(月)-4日目 闘牛で有名なパンプローナの続きを書いている。巡礼の道筋になっているぐらいだから、もちろんパンプローナには大聖堂がある。11世紀にロマネスク様式で建てられたが、13世紀にゴシックで改築、正面入り口は19世紀のネオクラシック。ほとんどの聖堂は、このように改築時に様式が変化している。 ハカで見かけた巡礼者は、パンプローナ(北スペインの旅1の地図参照)では更に多くなった。青地に黄色のホタテと矢印のついた看板や路上のホタテも目立ってきた。聖堂の入り口にもホタテの彫刻がある。
ドイツやスイスでは、ホタテ貝のことをヤコブ貝とも言うそうだ。帰国後に本をいくつかあたってみたが、ヤコブの遺骸を船で運んだときに船底にホタテがたくさんついていた、ホタテを遺骸につけて葬った、ガリシア地方(サンチャゴがある地方)はホタテの産地だから貝殻を利用しようとしたなど、いろいろの説がありはっきりしない。でも巡礼が始まったころから、ホタテはシンボルになっていたという。 もっとオモシロイことに、「ヤコブがスペインに行った確証はない。ヤコブのスペイン伝道に関する最初の記述は5〜6世紀の文献が最初。9世紀に見つかったという墓も古代ローマの金持ちの墓だろう」と、美術史家の五十嵐氏が書いている。(新潮社とんぼの本「サンテイアゴ巡礼の道」) <パンプローナのACシウダード泊> 8月24日(火)-5日目 徒歩でサンチャゴまでいく巡礼の道と、ほぼ平行してバス道が通っている。その道を私たちは辿っている。ムルザバル村のサン・エステバン教会やサンタ・マリア・デ・エウナテ教会に寄った。すぐ側に麦畑や牧草地(左)があるようなひなびた所に建っている。人家のない荒野のような道を歩き続けている巡礼者は、この教会を見るとほっとするのではなかろうか。 10時ころプエンテ・ラ・レイナ(地図参照)到着。ここは、ソンポルト峠を抜ける巡礼路とイバニエタ峠を抜ける巡礼路が合流する町。ここからはサンチャゴに向かう道はひとつしかない。 磔刑教会とサンチャゴ教会の中に入った。磔刑教会にあるイエス像は、見慣れた十字ではなくY字の木にかかっていた。小窓から自然光が入り、感じがいいイエス像だった。自由に撮っていいというので、カメラに収めた。ここに限らず、教会で撮影を断られることはめったにない。ミサでさえ、外国人はパチパチやっている。
絵はがきにもなっている王妃の橋は、11世紀のはじめナバラ王の王妃ムニアが作った。橋がないために遠回りをする巡礼者を気の毒に思い、建てたそうだ。茶色いレンガ製で中世の雰囲気を残している。 昼食は、リオハ州の州都ログローニョという町でとった。ここにもサンタ・マリア・デ・ラ・レドンダ大聖堂があるので、巡礼者がたくさんいた。 ブドウ畑や麦畑を窓外に見ながら、夕方4時半頃、ブルゴス(地図参照)に着いた。4時半と言っても、燦々と太陽が照りつけている。からっとしているので汗はかかないが、つい日陰に移動してしまう。 私には馴染みがないブルゴスだが、レコンキスタの英雄であるエル・シドの生地。カスティーリャとレオンが1037年に統一して王国を作ったときの首都だった地。1936年から39年にフランコ政権が置かれたのもここだ。 サンタ・マリア門を通って旧市街に入った。城址にも登ってみたいが、私たちの見学はブルゴスの大聖堂だけだった。フランス・ドイツゴシックの影響を受けて16世紀に完成した。スペインでは、セビリア、トレドの大聖堂に次ぐ規模だという。 私はこういう大聖堂を好きになれない。ステンドグラスや祭壇の彫刻などは、ひとつひとつ見れば価値があるのだろうが、付け足していくので、ごった煮状態。 エル・シド夫妻も、のちにこの大聖堂の下に移されたという。その部分は縄張りになっていた。昔「エル・シド」という映画を見たように思う。でもはっきり覚えていない。
感想・要望をどうぞ→ 次(ブルゴスからレオン)へ 北スペインの旅1へ ホームへ |