日本史ウオーキング

 10. 箸墓古墳(弥生〜古墳時代)


 「箸墓(はしはか)古墳なんて、聞いたこともない」という人が多いと思うが、今や、中学教科書のグラビアを飾っているのは、奈良県桜井市にある箸墓古墳である。邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと、脚光を浴びている古墳でもある。

 古墳は全国に25万基もある。前方後円墳に限っても、岩手から鹿児島まで5,200基もある。これらが盛んに作られた時代を古墳時代と言うわけだが、弥生時代のはじまり同様、古墳時代も100年ぐらいさかのぼる可能性があるらしい。ハイテク技術が、従来の説をどんどん変えている。

 時代順に歩いている日本史ウオーキングは、古墳時代に入った。箸墓古墳が重要な遺跡だと知ったのは数年前に過ぎないが、知った限りは、ここに行かずばなるまい。

 2004年9月に、いつものKちゃんと行ってきた。私達の箸墓行きを知っていたかのように、2004年5月3・10日号の「AERA」に、邪馬台国をめぐる「最終証拠」として、箸墓古墳の記事が載った。

 右の航空写真は、AERAから拝借した。赤い矢印がついているのが、箸墓古墳である。

 箸墓古墳を含む纒向(まきむき)遺跡は、いわゆる「山辺の道」にある。左図も「AERA」から。

 前日は明日香村に泊まったので、明日香→橿原神宮駅→近鉄「桜井」→JR「桜井」→JR「纒向(まきむき)」のルートを取った。桜井線の車窓から三輪山が見え、これから向かう纒向の期待が高まる。

 ところが、纒向は無人駅だった。駅周辺には案内図があるものと決め込んでいたが、それもなければ、聞こうにも人もいない。ロッカーもないので、重い荷物を持って勘だけを頼りに歩き出した。

 三輪山のふもとにある一帯は、纒向遺跡と呼ばれ、170年〜350年に、一大集落があった。こういう予備知識を得ていたので、もっと整備されていると思いこんでいた。

 AERAには、発掘の指揮をとった石野徳島文理大教授は、はっきりと言う。「纒向の住人の10人に3人は外来者。邪馬台国は、奈良盆地東南部にあったと思う。卑弥呼が統治した各地の拠点集落から人々が集まったのです」の記載がある。また「最近、考古学の重鎮たちが、こぞって大和説を明言するようになってきたのだ」とも書いてある。

 「古墳の造営時期は300年以降」というのが定説だったが、古墳時代始まりは早くなり、卑弥呼の時代と重なるらしい。そんなこともあって、箸墓を取り上げたこの項を、「弥生時代〜古墳時代」とした。

 箸墓古墳は、宮内庁の管轄にあるので、発掘が許可されていない。でも、墳丘や周辺で見つかった埴輪や土器からおよその時代が判断できる。箸墓も260年ぐらいまで、さかのぼることがわかったのだ。

 稲穂が垂れる田舎道を歩き回って、やっと箸墓にたどり着いた。近くで見ると、単なる小山に見える(上)が、航空写真を見ると、たしかに前方後円墳だ。長さも280bと大きい。魏志倭人伝の記述にある卑弥呼の墓の大きさと、ほぼあっている。

 古墳正面には、宮内庁の注意書きの立て札があった。宮内庁が管理している古墳の中で、実際の被葬者と一致しているのは、数えるほどしかないと言われる。

 ここも、倭迹迹日百襲姫(やまととももそびめ)命、大市墓とある。陵墓のほとんどが適当にあてはめていったと聞いているので、大市がどんな姫君なのか、知りたいとも思わない。もっとも、卑弥呼の墓と決まったわけではないから、卑弥呼墓と書くわけにもいかないだろう。

 天皇陵の発掘には、頑として反対を唱えている宮内庁だが、ここは天皇陵ではない。宮内庁が、日本の歴史の真実を知ることに前向きになってくれれば、発掘は可能だ。長年の論争に終止符が打てる「何か」が出てくるかもしれない。

  考古学者の大勢が、邪馬台国・大和説であろうとも、纒向遺跡には、吉野ヶ里のような具体的な遺跡が見つかっていない。これでは、卑弥呼の都のイメージはわきにくい。発掘がどんどん進展することを願うばかりだ。もし宮殿・楼観・邸閣跡が発掘された場合には、「纒向駅」は無人どころか、立派な駅舎に変わるだろう。散策コースも整備され、大勢の野次馬で賑わうに違いない。(2006年8月12日 記)

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