日本史ウオーキング

  12. 天皇陵

 前項で大仙古墳(伝仁徳天皇陵)をとりあげたところ、「仁徳天皇は埋葬されていないのですか!?」という驚きの声が、掲示板やDMに寄せられた。もちろん、とうにご存知の方もいる。そんな驚きの声にお答えするために、時代幅は広くなるが、天皇陵について書いてみたい。

 2004年9月19日、大仙古墳を1周したあと、JRから近鉄に乗り換えて「上の太子駅」に向かった。聖徳太子の墓がある太子町(大阪府南河内郡太子町)が駅名になっている。バスもタクシーも極端に少ない町で、マイカーを使わない旅行者には、このうえなく不便だ。歩くっきゃない。

 太子町は歴史がぎゅっと凝縮されている町で、駅に降り立っただけでわくわくしてくる。駅前には当時の面影を残す竹内街道(左)が通っている。難波と飛鳥をむすぶ、日本初の官道だ。中国やシルクロードの文化・文物もここを通って飛鳥に伝わった。

 街道沿いの民家(右上)を見るだけでも、小さな駅に降り立った甲斐があるというものだ。孝徳天皇陵の隣に、町立の竹内街道歴史資料館があり、そこものぞいてきた。街道が賑わった頃を偲ぶことができる。

 まず向かったのは聖徳太子の墓。鳥居と柵があるだけの清楚な天皇陵に比べ、立派な建物もある。左の額「聖徳廟」には、内閣総理大臣 岸信介の署名があった。

 この後、聖徳太子の父・31代用明天皇陵、聖徳太子の伯父30代敏達天皇陵、聖徳太子の叔母・33代推古天皇陵36代孝徳天皇陵を次々にめぐった。小野妹子の墓もある。聖徳太子の頃の有名人が揃って眠っているが、これについては、後に書く予定。

 この旅の前に「宮内庁が管轄している古墳のほとんどは、明治20年代に当てはめられたもので、、実際の被葬者と一致しない」と調べがついていた。にもかかわらず、彼岸前の日差しが容赦なく照りつける中を歩いている。

 「ほんとうの天皇が埋葬されているわけでもないのに、なぜこんなことやってるんだろうね。偽りの天皇陵を探しても意味ないのに」と2人でブツブツ言いながらも、探さないと気が済まないのだった。

 二上山(右)と、黄金色の田と赤いヒガンバナ(右)がなかったら、歩き回る気力はなかったかもしれない。ヒガンバナ写真の背景の森は、推古天皇陵。天皇陵の正面はずべて撮ってきたが、同じような作りで、それを並べてもつまらないので、省略する。

 翌20日は、奈良県に移動して、明日香村を歩き回った。明日香で訪ねた天皇陵は、29代欽明陵40代・41代の天武・持統陵42代の文武陵。天皇陵以外にも見どころ満載の明日香だから、歩いたこと歩いたこと。私は自転車に乗るのが怖いので、ここも歩くっきゃないのだ。昨日同様、秋の花と色づいた田が、励ましてくれる。

 翌21日の目的は、箸墓古墳と黒塚古墳。天皇陵はついでだが、側にあるとわかれば、見ないと気が済まないのだった。この日訪ねた天皇陵は、橿原市の初代の神武天皇陵、天理市の10代の崇神陵、12台の景行陵。景行天皇は、あの有名なヤマトタケルの父だが、ヤマトタケルは架空の人物だと言われている。

 この日も歩くしかない田舎道を、歩いた歩いた。結局、この3日間で、天皇陵だけで12も訪ねたことになる。これ以外に天皇陵以外の古墳も訪ねている。

 「図説天皇陵」(2003年・新人物往来社)の中で、花園大学の山田邦和教授が「天皇陵への招待」という一文を書いている。主な部分を抜粋してみる。

 「古墳・飛鳥時代の天皇陵の信頼性の低さは今や学界の常識となったといってよい。宮内庁の治定どおりでまちがいないと断定できるのは、推古天皇陵、舒明天皇陵、天智天皇陵、天武・持統両天皇陵の4陵に限られるであろう。」
 
 近所にお住まいのI東大名誉教授は「私はそれ以外に、15代応神天皇陵(羽曳野市)も、一致していると思います」とおっしゃっていた。神武から開化までの9代が実在しなかったことは、おおかたの学者が認めているが、10代から14代までは異説がある。15代の応神天皇は、疑いなく実在したと認められている最初の天皇である。

 もし、14代までの天皇が実在しないとしたら、21日に見た天皇陵3つはすべて架空の天皇の墓ということになる。「何やってんだか」と思わないでもないが、明治期に新たに造築した神武陵はじめ、見物する価値はある。実際に見たことで、得られたものは大きかった。

 天皇陵の真偽を確かめた時に、I先生から朗報を耳にした。「宮内庁の書陵部も、一致していないのは認めていて、再調査せねばと考えているようだ。発掘が許される日が来るかもしれない」と。

 花園大学の山田教授の文を、さらに引用する。「奈良・平安時代には38人の天皇がいるが、その中である程度信頼がおけると考えられるのは、43代元明天皇陵、45代聖武天皇陵、60代醍醐天皇陵、72代白河天皇陵、74代鳥羽天皇陵、75代崇徳天皇陵、76代近衛天皇陵、77代後白河天皇陵、80代高倉天皇陵の9陵にすぎないのである」。

 「考古学者や歴史学者は勝手なことを言ってるなあ」と思う方もいるかもしれないが、諸説あるにせよ、文献と遺物の両面からきちんと研究していることは事実なので、私は、素直に受け入れたいと思っている。
(2006年9月28日 記)

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