日本史ウオーキング

   13.  厩戸皇子−聖徳太子−(飛鳥時代)

 旧石器・縄文・弥生・古墳時代は、いつ始まりいつ終わったのか曖昧だが、飛鳥時代以降は、一応、時代の始まりと終わりがはっきりしている。

聖徳太子像  厩戸皇子が推古天皇の摂政になった593年を、飛鳥時代の始まりとしている年表が多い。古墳時代と飛鳥時代の間に大きな変革はなかったが、厩戸皇子の政治を斬新と捉えてのことだろう。厩戸は聖徳太子の本名である。最近の大方の教科書は、厩戸皇子と記載され、カッコ内に聖徳太子が入っている。

 聖徳太子(左は橘寺の太子殿にある像)は、一昔前はお金の代名詞でもあり、日本史の有名人物のベスト10に入る。そんな有名人の名がカッコの中に入ってしまったのはなぜか。

 厩戸皇子は、720年の「日本書紀」に、偉大な人格者・有能な政治家として書かれている。皇子没後100年も経ってからだ。歴史は勝者の立場から書かれることが多い。なぜ100年後に、厩戸をこのように書かねばならなかったのか。それについては、別の項で取り上げるつもりだ。

 最近は、聖徳太子の存在や業績に疑問が出始め、「聖徳太子はいなかった」という学者までいる。そんなこと今更言われても、正直困ってしまう。教科書には、2人の皇子を従えた聖徳太子の絵が必ず載っていたし、長いことお札でも見慣れている。

 いくつかの説や本を読み囓ってみたところ、厩戸皇子という存在はあったにせよ、政治の実権を握っていたのは蘇我馬子であるというのが大方の意見だ。

 中学の歴史教科書(日本書籍)には「女帝の推古天皇は、おいの厩戸皇子を摂政とした。厩戸皇子は、蘇我氏とともに新しい政治をおこなった」の記述がある。さすがに厩戸皇子を消し去ることまではしていないが、私たちが学校教育を受けたころは、蘇我氏は大悪人として語られていたので、数行とはいえ、蘇我氏を「新しい政治をおこなった」と書いた筆書の意図を感じる。

 ご近所に住む歴史学者は「馬子が実権を握っていたのは確かです。でも法隆寺だけは厩戸皇子が建立したんですよ」と言う。でも「厩戸は仏教信者ではなかった。むしろ側近の秦氏が信仰していて古代基督教の影響を受けていた」と言う学者もいる。誰を信じ何を信じていいか、皆目わからない。

 若い頃、聖徳太子の聡明さを聞かされるたびに、「なぜ天皇になれなかったのだろう」と不思議だった。疑問に思いながらも、自分で研究する気がない私は、その思いを封じていたが、日本史ウオーキングを始めた頃から、疑問が蘇ってきた。

 現在のように、天皇になる順番が皇室典範で決まっているわけではない。しかも彼は用明天皇の長子であり、資格は充分ある。叔母である女帝の推古天皇は、なんと36年も長きにわたって天皇の地位にいた。女帝の国は野蛮であると中国から思われた時代にあって、異常とも思える長さだ。推古天皇には長子の竹田皇子もいれば、甥の厩戸皇子もいる。女帝が長いこと天皇の位にあったのは、特別な事情が存在したとしか思えない。

「悪行の聖者」 こんなことを考えていたときに、「悪行の聖者 聖徳太子」(左)が出版された。(篠崎紘一著 新人物往来社 2006年9月初版)。

 篠崎氏は学者ではないが、IT企業の社長後、古代史の小説を書いている人だ。面白そうだったので買ってみた。

 冒頭は、厩戸が崇峻天皇を暗殺する場面である。一般には、用明天皇の次の崇峻天皇を暗殺したのは、蘇我馬子ということになっているが、厩戸も計画に関与していたという学者も以前からいたので、厩戸が暗殺したとしても、私はさほど驚かない。この小説では、ずばり手を下したのは厩戸皇子だ。
 
 一般に使われている系図では、厩戸は、用明天皇と穴穂部間人皇女の長子だが、この小説では、用明天皇と推古天皇の間に産まれたことになっている。厩戸は、推古の甥ではなく実子だと。

 古代では、異母兄妹の結婚は許されたが、同母の結婚は許されていなかった。用明と推古天皇は、父も母も同じ実の兄姉だ。異母兄妹の結婚は許されても、同じ父母の兄妹の睦み合いは、畜生と同じだと考えられていたらしい。

 「畜生の間に産まれた自分が天皇になどなれるはずがない。なるべきではない」と、天皇即位を断念したと、篠崎氏は推定している。なんとなく説得力に欠けるが、あくまで小説なのだと考えればいいのかもしれない。でも数十冊にも及ぶ歴史書を読んでの小説だから、事実無根とも言えない。いずれにしても、私には荷が重すぎる事柄なので、聖徳太子関連の史跡訪問を記すにととめたい。

聖徳太子誕生所 厩戸皇子は、橘の宮という欽明天皇の別宮で生まれたとされる。そこは今、橘寺−奈良県高市郡明日香村−(左)が建っている。明日香村を歩き回った2004年9月に立ち寄った。

 余談だが、村を指すときは明日香を使い、時代には飛鳥を使っている。「飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば・・」と万葉集にあるように、飛ぶ鳥は明日香の枕詞。飛鳥を「あすか」と読むのは不自然に思えるが、枕詞に関連した読み方だと知ると、納得できる。

 橘寺のボランティアガイドが、「聖徳太子の母は、夢で金色の僧に受胎を告げられ、馬小屋の前で太子を出産しました。だから厩戸皇子の名がついたのです」と説明した。これは、厩戸の死後何百年も経て書かれた多くの「聖徳太子伝説」に出てくる話で、ガイドが作り話をしているわけではないのだが、思わずクスリと笑ってしまった。

橘寺 本殿の前には、立派な馬(右)まで鎮座している。また「馬小屋云々・・」の話が出たら、クスリどころか大笑いしたかもしれない。幸いなことにそうではなかった。「太子の愛馬でした。空を駆け、達磨大師の化身と言われます」。

 天皇の子どもがなぜ馬小屋で生まれたのか。常識で考えればおかしな話。言うまでもなく、マリアがイエスを馬小屋で産んだという話に共通している。「聖徳太子伝説は、景教、あるいは秦氏が信仰していた古代基督教の物語がたくさん転用されています」と聖書解説家の久保有政氏は書いている。

宮内庁看板聖徳太子廟聖徳太子の墓は、大阪府南河内郡太子町にある。ここも2004年9月に訪れた。他の陵より立派で、本格建築の廟(左)まである。宮内庁の看板は、「推古天皇皇太子聖徳太子」(右)となっている。これだけ見ると、まるで推古天皇の息子に思える。篠崎氏の小説そのものになってしまう。

 日本史ウオーキングの「12.天皇陵」でも書いたように、太子町には、敏達・用明・推古・孝徳と4人もの天皇陵がある。けれど町名は、太子町である。聖徳太子の方が天皇より重んじられている。ちなみに太子町は、兵庫県揖保郡にもある。平安時代に法隆寺の荘園があり、その中心に斑鳩寺が作られたという。

法隆寺五重塔 聖徳太子関連史跡として法隆寺をはずすわけにはいかない。事実がどうであれ、「法隆寺といえば聖徳太子」がインプットされているので、今更、聖徳太子と無関係かもしれないと言われても、切換ができない。

 高校の修学旅行以来何度も訪れているが、日本史ウオーキングという目的を持っての訪問は、2005年3月だった。ネットで見つけたボランティアガイドのNさんが、法隆寺だけで6時間も説明をしてくださった。「4時間ぐらいは普通ですが、6時間は記録です」とNさんは、おっしゃっていた。

法隆寺中門 この寺には五重塔(左)や中門(右)はじめ、国宝・重要文化財が190件、点数にすると2,300点もある。膨大な美術品を前にすると、聖徳太子が実在であろうとなかろうと、どうでもよくなってくる。

 創建時の法隆寺は焼失し、8世紀ころに再建されたが、世界最古の木造建築は確かである。法隆寺の宝物や建物を前にすると、日本人であることが誇らしく思える。

 パンフレットには、聖徳太子は推古13(605)年に斑鳩宮(現在の東院・夢殿)を建て移り住んだ。その側に、法隆寺を創建したとある。摂政職についたは20歳だから、33歳の若さで斑鳩に移ったことになる。明日香村と斑鳩の里は、電車を乗り継ぐと、かなりの時間がかかる。距離にするとおよそ17キロもある。斑鳩に移り住んだら、飛鳥での政治が疎かになることは明白だ。途中で政治を放り出してしまったのかもしれない。謎は深まるばかりだ。(2006年11月22日 記)

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