日本史ウオーキング

  14.  蘇我氏と大化の改新(飛鳥時代)

 古代史において、蘇我氏の存在は大きい。なかでも、蘇我馬子(〜626年)は、敏達・用明・崇峻・推古の4代の天皇のもとで、54年間も大臣を務め、権勢を欲しいままにしたと言われる。

 
最近、馬子・蝦夷・入鹿の邸だと推測される遺跡が、奈良県の明日香村で発見された。明日香村は、「地上に万葉集、地下に日本書紀」と言われる。まさに古代史の宝庫。掘れば掘るほど、古代史が姿を現してくれるような気がする。

 2004年3月に、蘇我馬子の邸宅跡の可能性が高い建物群が出土した。(右・朝日新聞2004年3月12日)。

 馬子の墓と言われる「石舞台古墳」(左)の西隣。日本書紀の「飛鳥川のほとりに家を建て、庭に小さな島のある池を造る。人々は島大臣と呼んだ」とある。この記述とも一致する。

 その馬子の孫にあたる蘇我入鹿が、中大兄皇子と中臣鎌足によって、白昼堂々と宮殿内で殺された(左)政変が「乙巳の変」である。この事件後の一連の改革を、大化の改新と呼んでいる。

 この政変が起きた645年は、日本史で最初に覚える年号だ。政変後、初めての年号・大化が出来たほどの大事件と言える。強大な権力を持っていた蘇我氏が滅び、天皇家が律令体制を固めるきっかけになった。

 入鹿が殺害された翌日、父の蝦夷は自宅と入鹿邸に火を放ち自害したと、日本書記にある。こうして、長いこと権力をふるった蘇我家は滅亡した。

 入鹿の邸と思われる跡も、明日香の甘樫丘の東麓で、2005年11月に見つかった。

  「日本書紀」の皇極3(644)年の項に「冬11月に蘇我大臣蝦夷・子入鹿臣、家を甘樫丘に双べたつ。大臣の家を呼びて、上の宮門といふ。入鹿の家をば、谷の宮門といふ」という記述がある。

 明日香村は前年歩いているが、大化の改新で殺された人物の邸跡が見つかったからには、見ないわけにはいかない。見学会は終わってしまったが、その20日後の2005年12月に、再び明日香を訪れた。

 甘樫丘東麓の発掘現場は、すでに埋め戻されてひっそりとしていたが、掘ったばかりの新しい盛り土があった(左)。甘樫丘の頂上に立つと、大化の改新の舞台・板葺宮が眼下に見える。蘇我氏は、天皇の宮殿より高見に居を構えていたのだ。

 奈良文化財研究所発行のパンフには「今回の調査で見つかった建物群の正確な時期を特定することはできませんでしたが、谷の広い範囲で大規模は造成が行われたことがわかりました。・・この場所が蘇我氏の邸宅の候補地であることを示しています」とある。学者だから、断定はしていない。

 こうして、馬子・蝦夷・入鹿と3代の邸跡の可能性が高い遺跡を目のあたりにすると、1300年〜1400年前の出来事が、がぜん身近に感じられる。

 談山神社などに語りつがれる話だが、中臣鎌足と中大兄皇子は、飛鳥の法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠会で親交を結んだ。その後2人は多武峰に登り、大化の改新の構想を語りあった。以後、この地は談山(かたらいやま)と呼ばれ、談山(だんざん)神社の社名になったという。

 大化の改新構想が生まれたとされる談山神社(右・十三重の塔)に行ったのは、2002年のやはり12月だった。桜井市の多武峰にある。日本史ウオーキングをしていない時で、一緒に訪れたのも別の友人だが、写真は撮ってあった。

 談山神社は、藤原(中臣)鎌足の霊を祀るために、鎌足の長男と次男の不比等が678年に建立。今あるのは1532年の再建。

 境内には「蹴鞠の場」もあり、拝殿には多武峰縁起絵巻も展示してあった。多武峰縁起絵巻は、鎌足誕生から藤原氏の繁栄までを描いている。「10分ほど登ると、鎌足の古墳や、談山(かたらいやま)がある」の説明を読んだのは、家に帰ってからだった。見損なってしまった。

 上の入鹿殺害の絵は、談山神社で写してきたもの。ガラスにも入っていないし、撮影禁止でもなかった。本物ではないような気がする。入鹿の首が飛び血が噴き出す場面が、リアルに描かれている。太刀を振りかざしているのは、中大兄皇子、弓を引いているのが中臣鎌足。まるでその場に居合わせたような絵だが、ずっと後の江戸時代の作である。

 明日香村には、板葺宮と伝えられる遺跡(左)がある。板葺宮は皇極天皇の宮で、大化の改新の舞台になった宮だ。

 ここに立つと、645年6月12日の出来事が、真に迫ってくる。遺跡が何も語らないのは、非常に残念だ。

 「最近は、この周辺の広い地域を飛鳥京と呼ぶ場合が多いんです」と、大阪歴博の学芸員が話してくれた。

 板葺の宮で殺された入鹿の首が飛んだとされる地に、「入鹿の首塚」(右上)が立っている。蘇我氏が建立した飛鳥寺の裏手にあたる。蘇我氏大悪人と言われた時代にあっても、入鹿を丁寧に弔った人達がいたようだ。

 敷石の後方、芝生のあたりが賑やかなのは、彼岸のライトアップのイベントを学生(奈良芸術短期大学)が準備しているところ。この日、2005年9月の夜、明日香村全体は、幻想的な雰囲気に包まれた。
(2006年12月11日 記)

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