日本史ウオーキング

  15. 大化の改新後の都・難波宮(飛鳥時代)

 「政治の中心地が明日香(飛鳥)にあったことから、飛鳥時代と名づけた」と習った覚えがある。最近は、飛鳥板蓋宮一帯を飛鳥京と呼ぶらしい。しかし、飛鳥時代のおよそ100年余に、何度も飛鳥の地を離れている。孝徳天皇は難波に遷都、天智天皇は大津宮、持統天皇は藤原京を造営した。

大阪歴博のビル 日本史ウオーキングは、各時代の代表的な遺跡を最低1ヶ所は巡ろうと始まったものだが、だんだん欲が出てくる。「難波宮跡にも行ってみなきゃあ」と、2006年12月に訪れた。

ライトアップされた大阪城 難波宮跡は、大阪市中央区大手前4丁目の大阪歴史博物館(通称なにわ歴博)に重なっている。大阪に詳しい人には説明の要もないのだが、秀吉が築城した大阪城も目の前にある。ここ一帯で「日本史のお勉強」がたくさんできるのだ。

 「なにわ歴博」(左写真の左がわのビル)は、地上10階・地下2階からなり、とてつもなく立派だ。右がわのビルはNHK。

 私たちは、夜8時まで開館している金曜に入場した。おかげで、各階の窓から見える大阪城(右上)のライトアップを目にすることが出来た。内容も充実しているが、見せる工夫も存分にしている「なにわ歴博」である。

 難波の宮がこれほど大規模で本格的なものだとは、訪れるまで知らなかった。そして、孝徳天皇以外に奈良時代の聖武天皇も、難波に宮を築いたことを初めて知った。

 山根徳太郎によって、この地が初めて発掘されたのは、1954(昭和29)年で、そう古いことではない。離れた地に住む私が、難波宮の規模を知らないのは、当たり前かもしれない。現地に足を運んでこそ分かることだ。孝徳天皇の宮を前期難波宮、聖武天皇の宮を後期難波宮と区別しているが、今回は、
前期難波宮のみを記す。

前期難波宮 内裏西方官 大化の改新で皇極天皇が退位し、孝徳天皇が即位して難波遷都を決めた。日本書紀にも、大化元年(645)12月に、「難波長柄豊碕宮」に都を遷したという記載がある。以後654年までの9年間、難波は政治の中心になるが、孝徳天皇の死後、再び飛鳥に戻っている。

 難波は、その前から外交の窓口として重要な地だった。中国や朝鮮の使節は、難波にある迎賓館で饗応されてから、大和へ向かった。だから、大化の改新後の難波遷都は、世界に開かれる新しい政治への意気込みだと言っていい。

 右イラストは、「難波宮跡 ガイドマップ」のパンフレットをコピーしたもの。オレンジ色の楕円形が博物館。赤の方形は前期難波宮の、内裏西方官衙である。この図の右側に、内裏などが確認されている。

 ちなみに緑の方形は、古墳時代の法円坂遺跡。16棟以上の掘立て柱の建物で、倉庫跡と推測されている。近くの百舌鳥や古市に巨大な古墳を築いた王によって営まれたらしい。

 博物館の地下に眠る管理棟の遺跡を、ボランティアガイドが案内してくれた。自由に集まった私たち20人ほどを案内してくれたのは、80歳近いと思われるご婦人。生き生きとして楽しげではあるが、私とKちゃんは「大丈夫かしら」と内心思っていた。なのに、その方が「足元にお気をつけください」など言う。思わず、顔を見合わせてニヤリとした。

ガラス越しの遺構 まず博物館の1階ホールからガラス越しに、管理棟の柱穴を上からのぞいた(左上)。ガラスに乗っても壊れないので、じっくり見ることが出来る。写真はごく一部で、もっと広範囲のガラスで覆われている。

 次は地下に下りて、目の高さで遺跡(左下)を見学。やはりガラス越しだが、遺跡を埋め戻した後は、見学させない場合が多いので、間近に見ることができるだけでも幸せかもしれない。

 なにしろ、あの大化の改新後に造営された遺跡なのだ。およそ1360年前に、柱穴を掘った労働者の声が聞こえるような気がする。

地下遺構 20分間の見学ツアー後に、何か質問は?とガイドが言う。「あのう〜。これ以前の飛鳥に建てられて宮は、簡素だったと聞いています。でも、これほどの宮を造営する力は、あったんですねえ」と念押しをしてみた。

 「そんな難しいことは分かりませんので、学芸員に聞いて」と言われた。なにしろ私たちは「お勉強」で歩いているので、うやむやにはしたくない。ハンサムで若い学芸員のRさんが、丁寧に説明してくれた。

 「前期難波宮は、内裏(天皇が居住するところ)、朝堂院(公式行事や政務を行う場)、朱雀門(宮城南門)が一直線上に並んでいます。このような整然とした配置は、それ以前の飛鳥の宮殿には、見られないんです。大陸の宮殿造営思想や技術が、色濃く反映していると思います」

 「新しい官制ができたことで、それまでにない規模で人々が参集したと推測されます。天皇の権威を示すことができる施設として造営したんです」というようなことを、分かりやすく話してくれた。

 前期難波宮の復元模型は、博物館に展示してある。1360年前の壮大な建築群に驚く。最近は「大化の改新はなかった」という説さえあるが、こうした立派な宮の造営は、何かがなければ出来ないように思う。傀儡のような孝徳天皇にそれほど力があったとも思えない。中大兄皇子なのか、藤原鎌足なのか、それとも他にいたのか。もちろん私には、わからない。(2007年3月18日 記)

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