日本史ウオーキング

 16.大津宮(飛鳥時代)

古代の都 飛鳥時代の都は、飛鳥の地だけにあったわけではない。前項15(右地図の数字)で、飛鳥以外の都として難波宮を取り上げたが、今回16(右地図の数字)は天智天皇の都・大津宮跡訪問記である。2006年5月、新緑がまぶしい季節に、滋賀県の大津近辺を歩いてきた。

 645年の乙巳(いっし)の変で蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子が、天皇の位についたのは、17年も経た662年である。

 その間に、孝徳天皇と斉明天皇(皇極)が即位している。孝徳天皇はともかく、実母である皇極天皇が、再び斉明天皇として即位したのはなぜなのか。実権は中大兄皇子が握っていたとしても、17年は長すぎる。

 天智天皇は、即位後まもない663年の白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に大敗した。その直後の667年に大津に遷都している

 唐や新羅が再び攻めてくることを恐れ、大津に退いたという見方がある。一方で、近江は渡来人の拠点であり先進文化が栄えていたので、大津に進んだという見方もある。

 右地図は、「近江・大津になぜ都は営まれたか」(大津市歴史博物館編)をコピーした。飛鳥・奈良・平安時代の都がよく分かるので拝借した。17は、次に予定している飛鳥浄御原京と藤原京。

 大津宮の正確な所在地は専門家の間で長いこと論争していたが、一連の発掘調査で、中枢部は大津市の錦織にあったことが明らかになった。昭和58年のことだ。「にしきおり」と読みたくなるが「にしこおり」と読む。渡来人たちが、この地で機織をしていたらしい

大津宮遺跡 大津宮探索は、京阪石山坂本線の「近江神宮前」から始まった。遺跡は断片的にしか残っていないし、埋め戻されているので、面白くもなんともないのだが、南北に長かったという宮跡を次々と見て歩いた。

 左写真のような、「近江大津宮錦織遺跡」第○地点の立て札が9ヶ所もあった。「立て札だけで壮大な宮が浮かんでくる私たちの想像力は、たいしたものね」と自画自賛しながらのウオーキングだ。

 この大津宮は、わずか5年ほどで滅びてしまう。天智天皇が671年に亡くなるや、弟の大海皇子と息子の大友皇子の間で継承争いが起こった。世に名高い672年の壬申の乱である。

 大海皇子と大友皇子は、大津の膳所(ぜぜ)付近で衝突し、大友皇子は敗れたという。天武天皇として即位した大海皇子は、再び飛鳥の地にもどり、飛鳥浄御原宮(上の地図の数字17)を造った。

 京浜石山坂本線の「膳所」には下車したが、松尾芭蕉ゆかりの「義仲寺」を訪れるためだった。壬申の乱に関する史跡案内は、見つけずじまいだった。膳所高校の付近が両軍の衝突地と推定されている。

 5年で滅びてしまった大津宮を悼んだ歌は、数多く残されている。短命で終わった都は大津以外にもあるが、なぜか大津は歌人の心をつかんだようだ。次の歌碑が、近江神宮近くの公園に立っていた。

近江の海 夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに 古思ほふ 柿本人麻呂」
さざ波や 志賀のみやこは荒れにしを むかしながらの山桜かな 平 忠度」

近江神宮 大津宮遺跡を見れば、今回の旅の目的は達成したようなものだが、いつものごとく「歩け歩け」。近江神宮、皇子山古墳、琵琶湖マラソンで有名な皇子山運動公園、弘文天皇稜、歴史博物館、三井寺・・と歩いて回った。バスが頻繁に通る場所ではないし、歩かなければどうしようもないのだ。

 近江神宮(左)は、皇紀2600(1940・昭和15)年を記念して建立された。祭神は天智天皇だから、飛鳥か奈良時代の創建だと思ってしまうが、まだ60余年前のことにすぎない。皇紀2600年には、国威発揚のために、天皇や皇族を祀る神社が各地に作られている。太平洋戦争に突入した真珠湾攻撃は翌年だ。

水時計 こう考えると有り難味どころか、軍国主義を思い出してお参りする気分も薄れるが、当時の時代背景が見えて面白い。朱塗りの楼門、外拝殿、本殿が並び、それらを囲むように高い樹木がそびえている。

 天智天皇は漏刻(水時計)を作ったことでも知られるが、境内には水時計の復元がおいてあった。そばの時計博物館にも、古今東西の珍しい時計が展示してある。左は、水時計の復元。
 
 次は弘文天皇(大友皇子)稜を目指した。地元の人に聞いても「そんなものあるんですか」と返ってくるほど、大津市民にも馴染みがないようだ。やっと探し当てた陵は、大津市役所の裏手にひっそりと佇んでいた。

弘文天皇稜 弘文天皇は、明治時代に39代として追加された天皇である。壬申の乱で敗れた大友皇子が、天皇の職務を全うしたはずがない。にもかかわらず、新たに天皇に祭り上げたのである。明治とは、そういう時代であった。

 「長等山前陵」(左)は、他の天皇陵と同じく、柵・鳥居・鬱蒼とした山を備えている。「ながらやまさきりょう」と読む。「ここは長等山と呼んでいた普通の山だったのです。大友皇子が葬られているなんてありえないですよ」と、陵の管理人みたいなおじさんすら言っていた。
(2007年3月24日 記)




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