日本史ウオーキング

  17. 飛鳥浄御原宮と藤原京(飛鳥時代)

 天智天皇の息子・大友皇子が天智天皇の弟・大海皇子に敗れた壬申の乱で、大津宮は5年で消えてしまった。今回の主題は、大津宮から遷都した飛鳥浄御原宮と藤原京(日本史ウオーキング16の地図参照)である。

 皇位継承の順番が決まっていないこの時代は、天皇の即位には、血を血で洗うような争いがめずらしくなかった。壬申の乱も、天皇の位をめぐっての甥と叔父の争いだ。

 天智天皇と天武天皇の系図を見ると、今の感覚では考えられないような事実が他にもたくさんある。天武は天智の娘4人を皇后や妃にしている。天智と天武は両親とも同じ兄弟だから、血は非常に濃いはずだ。にもかかわらず、天武は姪4人と結婚して、それぞれ子供がいる。

 天智の娘である鵜野讃良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)は天武の皇后になり、のちに持統天皇として即位した。間に生まれたのが草壁皇子。急逝した草壁皇子の息子が、文武天皇である。この項で取り上げる飛鳥浄御原宮と藤原宮の主が揃った。

 他の妃についてはややこしくなるから省くが、天武は額田王との間にも、十市皇女という子供がいる。そして十市皇女は、大友皇子の妃になった。

 さらにややこしいことに、額田王は、のちに天智天皇の後宮に入っている。だから、大友皇子は、十市皇女の夫であり、従兄であり、義理の兄でもある。十市皇女にとっての壬申の乱は、夫・義理の兄・従兄弟である人と、 実の父との戦争だった。飛鳥時代とはいえ、こんなことがあり得たのだろうか?

蒲生野遊猟 中大兄皇子と大海皇子と額田王。3者の微妙な関係を表す相聞歌が万葉集にある。

「茜さす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖ふる」(額田王)

「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故にわれ恋ひめやも」(大海人皇子)

 蒲生野遊猟のときに交わされたもので、人目もはばからずに袖を振る大海人皇子を額田王がたしなめたのに対し、大海人皇子が人妻である額田王への恋情を表した歌と言われる。日本書紀には、天智天皇が668年に遊猟したと記されている。

 滋賀県東近江市にある蒲生野を、数年前に訪ねたことがある。近江鉄道八日市線の「市辺」で下車し、5分も歩くと、万葉の森公園がある。山を背にした公園の前に田園が広がり、いにしえの狩の場と聞いても違和感がない。相聞歌が大きな絵(上)になっていた。紫草の花が白いことを、この時にはじめて知った。名前からして、紫だと思い込んでいたが、白い花。根を紫色の染料として使ったことからの名だという。

天武天皇の正殿跡 本題に戻そうと思う。壬申の乱の翌年・673年に、大海皇子は天武天皇として飛鳥浄御原で即位した。

 飛鳥浄御原宮の正殿跡の発掘現場が公開されたのは、2006年3月8日。1年前にすぎない。私たちはこの直後に奈良を訪れているが、ここまで足を延ばす余裕がなかった。左は06年3月9日の朝日新聞。

 天武天皇は、人格が優れ多くの業績を残した天皇として「日本書紀」に載っている。飛鳥浄御原令制定・八色の姓制定・記紀の編纂勅命・三種神器制定・天皇号の制定などなど。

 しかし、編纂者である舎人親王は天武天皇の子供なので、脚色されているという見方もある。
 
 天武と天智は実の兄弟ではなかったという説も、ネットにはたくさん載っている。私には突き止める能力も気力もないので、そういう考え方が多々あるという記述に留めたい。

 「日本書紀」を見直す機運が、最近、非常に高まっていることだけは確かだ。教科書が書き換えられる日が、近いかもしれない。


 飛鳥浄御原宮の次の都が、藤原宮である。藤原京は天武天皇が計画したが、686年に崩御。持統天皇が引き継いで、690年に着工し694年に完成した。日本で初めての条坊制をしいた本格的な中国風の都。持統、文武、元明の3代の天皇が治めた。

藤原宮大極殿あと 藤原京というと、藤原氏が作った都のように勘違いするが、藤原鎌足・不比等とはなんら関係がない。藤井が原と呼んだことからの名前らしい。

 藤原京の規模が確定したのは、1990年代に入って東西の京極大路の発見後である。なんと、平城京の23平方`、平安京の24平方`をしのぐ25平方`もの規模であることがわかった。一辺が5`もある大規模な京だった。

 大和三山(耳成・畝傍・天香具山)の内側にあると思われてきたが、三山は京の中にすっぽり入ってしまう。

 ちなみに、「宮」は今で言えば皇居と霞ヶ関と国会議事堂をあわせたようなところ。「京」は貴族や庶民の生活の場である。

藤原宮内裏地区 私たちが藤原宮を訪れたのは2005年の12月。16項で示した地図でおわかりのように、明日香村の北に位置するが、住所は橿原市。宮の中心である大極殿跡(左上)に行く場合は、近鉄の「八木西口」かJRの「畝傍」が近い。

 「発掘調査部」の事務所が日曜日で閉まっていたので、詳しい話を聞けずに残念だった。史跡現場に行く場合は、日曜は避けたほうがよさそうだ。周辺に多少の家は建っているが、長い間田園地帯だったことが幸いして、藤原宮跡の6割は残っている。国の特別史跡に指定され、発掘は現在も続いている。

 上の写真は、「飛鳥藤原のみやこ」というパンフレットの内裏地区のコピーである。私たちが訪れたときは埋め戻されて、子供たちが走り回っていた。

 両方の写真の後方に見えるのが耳成山。わずか139mの低山ながら、飛鳥や橿原を歩いていると、耳成だけでなく大和三山が目に入る。大和三山といえば、万葉集の次の歌。

香具山は 畝火ををしと耳成と相あらそひき 神代よりかくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみもつまをあらそふらしき (天智天皇)

 蒲生野遊猟時の大海皇子と額田王の相聞歌と合わせてみると、なおいっそう面白い。大和三山の麓を、てくてく歩きたくなってくる。(2007年4月9日 記)

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