日本史ウオーキング

 18. 平城京(奈良時代)

奈良時代の都の変遷 歴史区分での奈良時代は、平城京に遷都した710年から、794年の平安遷都までを言う。しかし、この時代の都は、奈良にだけあったわけではない。

 左図(奈良文化財研究所のパンフ)のように、恭仁京・難波京・紫香楽宮・長岡京などに遷都しているが、奈良時代のおよそ70年間は平城京が都だった。

 京都は1000年以上も王城の地だったこともあり、史跡が重なり合っていて平安時代の面影を探すのは難しい。奈良はわずか70年間の都、その後荒廃したことが幸いし、平城京跡が地下に眠っていたのだった。

 江戸時代末には、平城宮跡だとわかっていたこともあり、保存運動は国民的なものになった。そのため、平城宮跡のほとんどは、開発から免れた。1952年には、国の特別史跡に指定され、いまなお、発掘している。約85%が国有地。

日本史ウオーキングでは、2005年3月と12月の2回、平城宮跡を訪れた。1回目のときに時間が足りなくて半分しか見学出来なかったからだ。

 下の図は、奈良文化財研究所発行のパンフレットの借用だが、平城京と平城宮の位置関係がわかる。京の北辺に宮があり、藤原京の宮が中心に置かれていたのとはあきらかに違う。遣唐使の「長安の都は、北辺に宮があります」という報告を聞いて、長安に倣った平城宮を新たに作ったとも言われる。

 地図に、東大寺・興福寺・西大寺・薬師寺・唐招提寺・法華寺など馴染みの寺があるので、平城宮の位置がおわかりと思うが、近鉄奈良線の「大和西大寺駅」に近い。朱雀大路南端の羅城門跡には行ってないが、そこは奈良市ではなく、大和郡山市だ。

平城京全体図

 平城宮跡は、2010年、つまり平城京遷都1300年に向けて、整備している真っ最中だ。朱雀門(平城宮の正門)・朝堂院・宮内省・東院庭園などが復元され、大極殿も復元工事中。

 朱雀門は、1998年に復元された。間口約25m、奥行約10m、高さは基壇ともで約22m。二層の瓦屋根をもつ堂々たる門。古代の手法をふまえ長い歳月を費やして復元された。柱は丹色、連子(れんじ)は緑青、そして白壁、きらびやかで豪快な天平文化の再現である。門の両側にはごく一部であるが大垣も築かれている。諸外国の使節は4kmに及ぶ朱雀大路を経て、この雄大な門をくぐった。

 平城宮は南北約1キロ、東西1.3キロと広い。「甲子園球場の30倍の広さです」の説明があった。朱雀門までは「大和西大寺駅」から20分も歩かねばならないし(市バスの場合は徒歩2分に停留所がある)、この中のすべての施設をゆっくり見るには、最低でも3〜4時間かかる。

 特に私達のように、奈良時代の「お勉強」のために見学する場合は、尚更だ。各所にボランティアの説明員がいて、みなさんよく勉強している。「私は昭和41年にすでにここを訪れているんです。単なる空き地でしたよ」など口走ったので、説明員も熱を入れてくれる。

 よほど物好きでないとここまで足を延ばさないかもしれないが、奈良時代を膚で感じたいならば、寺社めぐり、町屋めぐりだけでなく、ここに立ち寄ってみたらどうだろうか。特に、発掘の遺構を見ることが出来る遺構展示館、出土した遺物や模型が展示されている平城宮跡資料館は必見。入場料は無料。平城遷都1300年の2010年に完備されたならば、なにがしかのお金を取るような気がする。

朱雀門 近鉄電車 宮内省
平城宮正門の朱雀門。復元には長い年月がかかった。 朱雀門の目の前を近鉄電車が走っている。平城宮跡に現代も併存している。 宮内省の復元建物。朱雀門などに比べ質素なたたずまい。
東院庭園 塀 大極殿
遺構は土に埋められたが、東院庭園を復元。貴族の宴の場。 ところどこに、こうした大垣が復元してある。 第一次大極殿を復元工事中。2010年に完成予定。
発掘跡 柱 和同開珎
遺構展示館ではこのように発掘の現場をナマで見ることができる。 遺構展示館に展示されている当時の柱。 資料館に展示されている遺物。和同開珎が100枚も固まって見つかった。

(2007年7月9日 記)

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