日本史ウオーキング

 19. 聖武天皇の都(奈良時代)

 奈良時代の天皇は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳(孝謙の重祚)・光仁の7代だが、そのうち太字の4代が女帝だ。女帝が多かった理由は、別の項でとりあげる。

 7代の中でいちばん馴染みがあるのは、大仏を建立した聖武天皇だと思う。今回はその聖武天皇が作った3つの都のうち、紫香楽宮と難波宮のウオーキングである。中央集権の律令制が確立し、天平文化が花開いた時の天皇が聖武天皇(724〜749即位)だ。聖人と武人をイメージする聖武という名前からも、名君だったように思われがちだ。

 ところが、この天皇は何度も土木工事をして国を傾けてしまい、名君にはほど遠かったらしい。藤原広嗣(ひろつぐ)が九州で反乱を起こすと、平城京を逃れて、山城に恭仁京(くにきょう)を造営(740年)。それが完成しないうちに近江の紫香楽宮(しがらきのみや)を作り始め(742年)、さらに難波に遷都(744年)、また平城京に戻った(745年)。これら都の位置は前項18の地図にある。

 わずかの間に3ヵ所もの都を手がけただけでなく、東大寺と大仏、諸国に国分寺と国分尼寺を造営して土木工事に駆り立てた。国の富を減らしたばかりか、庶民の生活を疲弊させた天皇だった。

信楽のたぬき 滋賀県の甲賀市にある紫香楽の宮跡をKちゃんと訪れたのは、2006年5月。2年前の旅を今頃書いていることに、自分でもあきれてしまった。

 まず石山駅からバスで信楽町に行った。5月の陽光に草も木も花も輝き、車窓から飽きずに外を眺めていた。こんなに心弾む沿道なのに、乗っていたのは私たちを含め4人だけ。

 甲賀市の信楽町は信楽焼で有名だ。たぬきの置物(左)を見たり、抹茶茶碗を品定めした後に、信楽高原鉄道で「紫香楽宮跡駅」に向かった。訪れたのは、信楽鉄道の電車とJRの列車が正面衝突して42名が亡くなった大事故(1991年5月14日)の命日。黒い服装の遺族がホームにあふれていたので、それを知った。

 ちなみに、焼き物の里「しがらき」は信楽と書き、聖武天皇の都「しがらき」は紫香楽と書く。なぜ別字を当てたのか聞きそびれたが、どちらも詩的な漢字だと思う。

 駅の名前は「紫香楽宮跡」となっているが、跡までの案内表示はなく、地元の人に道を聞きながらやっと石碑が建つ場所に着いた。まわりは林で人影はない。荒れ果てているかというとそうでもなく、きれいに整備されている。だからといって、公園化されてもいない。この環境にひたるだけでも来た甲斐があった。

 訪れた地には「紫香楽宮跡」の石碑があるが、最近の発掘調査では、ここから少し離れた宮町遺跡が紫香楽宮跡であって、ここは甲賀寺跡とする説が有力だ。(滋賀県教育委員会発行の「いにしえの近江再発見」による)。宮町遺跡からは、建物跡・塀・溝・土器をはじめ、3000点もの木簡も見つかっているそうだ。私達は宮町遺跡には行かなかったが、寺も宮も造営したということになる。

 大仏建立は、この甲賀寺で始められたという。その後、難波や奈良に移ったので、甲賀寺に大仏が作られることはなかった。

紫香楽宮跡の碑 礎石 甲賀寺の礎石図
静かな林に囲まれた紫香楽の宮跡 残っている礎石の一部今では宮跡ではなく、甲賀寺の礎石と考えられている。 案内板にあった甲賀寺の礎石図

 紫香楽の次に遷都したのが難波。乙巳の変(大化の改新)後にも難波に遷っているが、それからおよそ100年後、聖武天皇の時にも都が置かれた。気まぐれな聖武天皇の後を追って、私達も気まぐれな旅を続けている。

大極殿跡と博物館の航空写真
 難波京跡を見るために大阪を訪れたのは、2006年12月。15の難波京で書いているように、1954(昭和29)年から始まった発掘で、2時期の宮殿遺跡が重なって存在することがわかった。

 地層の古い方を前期難波宮(飛鳥時代の7世紀建立)、新しい方を後期難波宮(奈良時代の8世紀建立)と呼んでいる。

 左の航空写真は、大坂歴史博物館で買ってきた「後期難波宮 大極殿」の冊子をコピーした。大極殿の基壇が、難波宮跡公園に復元されている。目の前が大坂城公園で、大阪城が右上に見える。左の楕円形のビルが歴史博物館。

 後期難波宮の大極殿は、42b×21bの規模で、石造りの基壇の上に建ち、屋根は瓦葺き、柱は丹塗りだったと考えられている。

 博物館の10階には、大極殿が原寸のまま復元され、非常に立派な大極殿だったことがわかる。結果論かもしれないが、すぐ平城京に戻ってしまった。なんのために無駄な工事をしたのか。聖武天皇の意図がわからない。

 大極殿を復元したフロアの南窓が開くと、難波宮跡公園が眼下に見える。「復元した大極殿の中から、大極殿の遺跡を見る」という、サプライズ演出があった。最近作られた博物館は、見せる工夫をしている所が多くて楽しい。

復元した大極殿 石碑 基壇から見た大阪城
博物館に復元した大極殿。宮廷人の人形も 難波宮跡の石碑 大極殿の基壇から大阪城を臨む。
(2008年4月20日 記)

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