日本史ウオーキング

 2. 岩宿遺跡(旧石器時代)

 世界史的には、新石器時代に先立つ旧石器時代の存在は、広く知られている。しかし「日本の歴史は縄文時代から始まるのであって、旧石器時代はなかった」と、長い間信じられていた。日本にも旧石器時代があったことがわかったのは、そう古いことではない。

 1949年の夏、群馬県赤城山麓の岩宿(いわじゅく)で、旧石器の「槍先型石器」を、無名の青年が発見したことで、日本史は書き換えられることになった。

 旧石器時代の扉を開いたのは、行商をしながら独自で考古学の研究をしていた青年・相沢忠洋(1926年〜89年)さんである。左は、相沢さん若き頃の写真。(相沢記念館に展示)

 赤土の関東ローム層は火山灰地で、動物も人間も生活できないと思われていた。しかし、その赤土から、人間が生活していたことを示す黒曜石の旧石器が見つかったのだ。

 「岩宿遺跡」(左)は、戦後の考古学上、最大の発見と言われる。相沢青年による発見は、明治大学の大学院生だった芹沢長介氏によって、世に知られることになった。

 芹沢氏は、右の朝日新聞(2000年7月)で、相沢青年との出会いを書いている。旧石器発見が大ニュースだったことがわかるので、お読みいただきたい。

 最後の8行に、「50万年を超すという古い旧石器がぞくぞくと発掘されてきている」とある。この時からわずか4ヶ月後に、宮城県のアマチュア考古学者による旧石器発掘ねつ造が発覚した。毎日新聞のスクープだった。見過ごしているのかもしれないが、この記述の訂正文は読んだ覚えがない。

 芹沢氏は、東北大学や東北福祉大学の教授を経て、現在も東北考古学界の重鎮である。ねつ造を見抜けなかったことが不思議でならないが、本題から外れるので、このぐらいにしておく。

 日本史の舞台を歩く旅の1回目は、岩宿ががいちばん相応しいと考えた。岩宿が歴史の教科書に載ったのは、発見から何年も後なので、初めて聞く方も多いと思う。遺跡は、群馬県新田郡笠懸町にある。KちゃんもNちゃんも私も首都圏に住んでいるので、群馬県なら日帰り出来る。

 東京の赤羽に集合し、高崎線で高崎へ。さらに両毛線に乗り換えて、岩宿に着いた。岩宿を知らなくても、国定忠治の「国定」と、絹織物の「桐生」はお馴染みだろう。その中間にある駅に降り立ったのは、2003年の6月26日。

 15分ほど田舎道を歩いて、最初に旧石器を発見した地点に到着した。「岩宿ドーム」という施設があり、旧石器出土の地層を剥ぎ取った現物が、展示してあった。

 地層は、地表から順に、笠懸層、阿左美層、岩宿層、金比羅山層にわかれ、微妙な色の違いを見せている。火山灰の種類などから、出土した石器の年代がわかるという。最初に旧石器が発見された地層は、1万年以上前であり、3万年ぐらい前の石器も確認されている。

 何もないと言われていた赤土の中から、完全な形の打製石器を見つけた相沢さんの興奮は、いかばかりであったろう。加工した石器が見つかったのは、人間が生活していた証拠だ。土器がまだ作られていない時代にも、私達の祖先は、生活していたのだ。

 狩りと採集に明け暮れ、食べるだけで精一杯だったろう。そんな日常でも、伴侶を得た喜び、子供が生まれた幸福を感じていたにちがいない。

 「岩宿ドーム」の脇に、2001年に建立された相沢忠洋像(左)が立っている。銅像になったことを相沢氏が喜んでいるかどうか知るよしもないが、旧石器の第1発見者だということがはっきりして、良かったと思う。

 「岩宿ドーム」から歩いて10分ほどのところに、「岩宿文化資料館」がある。ひとつの観光資源を目玉にして、総合施設を整備する例は、地方ではよく見られるが、ここもそういった施設だ。資料館を中心に、「岩宿人の広場」「老人憩いの家」「かたくりの湯」が点在している。

 休館日は月曜日。訪れた日は月曜ではないが閉まっていた。虫干しのため3日間の臨時休館だという。私は前に来ているが、岩宿出土の石器や、マンモスの全身骨格のレプリカが展示されていた。「旧石器時代をまるごとお見せします」といった資料館である。

 文化資料館を見学できないので、「相沢忠洋記念館」に行くことにした。8qも離れているので、タクシーを探したがありやしない。途方にくれている私達を見て気の毒に思ったのか、「かたくりの湯」から出てきた70歳ぐらいの男性が「暇だから連れていってあげる」と自家用車を走らせ、帰りも近くの駅まで送ってくれた。岩宿というと、まずこの方の顔を思い出す。ガソリン代も受け取ってもらえなかった。

 記念館は、新里村奥沢という雑木林の中にある。相沢氏の住居そばの資料収蔵庫を改造して、平成3年の3回忌後に建てたという。ここで館長の相沢千恵子さんにお会いした。右写真は旧石器のレプリカと館長。こころよく写真撮影に応じて下さった。言うまでもなく、レプリカの石器は実物よりずっと大きい。

 千恵子さんは、忠洋氏の奥さんが病死した後に、後添えに入った。彼女がいなければ記念館は出来なかっただろうし、維持も出来ないだろう。忠洋氏の業績や人柄に、心から惚れ込んでいるとしか言いようがない奥様である。

 「夫が発見した尖塔型の石器(左)は、重要文化財の指定を受けていなんですよ。でも、夫の案内で発掘した明治大学の杉原助教授(当時)の石器は、国の重要文化財に指定されています。こんな事、おかしいと思いませんか」と、千恵子夫人は、憤懣やるかたないといった調子で、私達に話しだした。

 千恵子夫人の怒りはもっともだと思う。学界にはびこっている権威主義を感じずにはいられない。1949年9月の、大発見を伝える新聞の記事には、相沢忠洋さんの名はない。単にアマチュア考古学者となっていて、前面に出ているのは、杉原助教授である。

 彼女によれば、芹沢氏は、このことで杉原氏に抗議してくれたという。その後、学界は、無名の青年の業績を無視するわけにはいかなくなったのだろう。今は、中学の教科書にも、相沢忠洋氏の名前と顔写真が載っている。

 千恵子夫人と芹沢氏の関係は、その後も良好だ。記念館の名誉館長は芹沢長介氏であり、売店には、長介氏の父親・_介氏の絵葉書などが置いてあった。芹沢_介氏は人間国宝の染織家。

 今回の旅のハイライトは、この石器を目の前で見ることが出来たことだ。相沢夫人にはお気の毒だが、考えようによっては、国の文化財などに指定されていなくてよかった。こじんまりとした記念館でなければ、しげしげと眺めるのは不可能だったかもしれない。

 「その石器は長さ7センチ、幅3センチほどの長菱形で周縁全体がきれいに加工され、一端は鋭くとがり、一辺はまた鋭く打ち割り刃がついていた。空にかざして太陽にすかしてみるとじつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っている」。相沢氏は著作「岩宿の発見」(講談社文庫)のなかで、この石器の美しさを書いている。(2006年1月7日 記)

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