日本史ウオーキング

  3.  大森貝塚(縄文時代)

 以前は、縄文時代の代表的遺跡といえば、「大森貝塚」だった。現在、教科書のグラビアを飾る縄文遺跡は「三内丸山遺跡」だ。それは次に取り上げるとして、シニア世代に馴染みのある「大森貝塚」を、まず書いてみたい。

 もう40年も前のことだが、JR京浜東北線の「大森」を通って、「田町」にある職場まで、通っていた。

 「大森」を出発するやいなや、線路沿いに「大森貝墟」の碑が見える。1分前後で、又もや「大森貝塚」の碑が見える。

 奇妙なことがあるものだと調べたところ、縦長の「大森貝墟」は大田区に、横長の「大森貝塚」は品川区にあることがわかった。「どこにでもあるご当地争いだな」と、その時は納得した。

 ご当地争いに決着がついたのは、発掘100年後の1977年である。モース発見の貝塚は、品川区の碑周辺だったことがはっきりした。

 発掘地の補償金の文書に「大井鹿島谷」の地名が残っていたからだ。首都圏の方には説明の要もないが、大井は品川区にあり、大森は大田区にある。

 「大森貝塚」の名前が有名なあまり、考古学者さえも、いまだに「大森」にあると思いこんでいるという記事が、朝日新聞(2005・9・15)に載っていた。

 モースの" Shell Mounds of Omori"の日本語訳が大森貝塚だが、モースがOmoriとしたのも無理はない。この地点は、大森駅から徒歩でも5分ほどの距離にある。

 アメリカ人のエドワード・シルベスター・モースは、1877(明治10)年に、日本の貝に魅せられて来日した。横浜・新橋間の汽車は、明治5年に開通している。その汽車で東京に向かう途中の大森付近で、 Shell Moundsを見つけたのだ。もし、モースが海側の座席に座っていたら、貝塚の発見はもっと遅れたのかなあと想像してみる。

縄文時代のゴミ捨て場である貝塚は、人間が生活していた証である。モース達は、貝以外に、土器・石器・骨製の道具も発掘した。人骨もたくさん掘り出した。

 モースが世界に向けて発表した報告書の写しを、品川歴史館で見せてもらったが、土器や釣り針の詳細かつ繊細なスケッチに驚いてしまった。モースが、この報告書で使った"cord mark"という言葉が「縄文」と訳されて、歴史の時代区分に使われている。日本考古学の発祥は、このとき、この場所である。

 私は、ふたつの碑を車窓から飽きるほど見ていたが、現地に行ったことはない。日本史ウオーキングと銘打っているかぎりは、考古学発祥の地に行かずばなるまい。いつもの3人で、2006年1月29日に行ってきた。

 ひさしぶりに降り立った「大森駅」のプラットフォームには、考古学発祥の地というモニュメントが立っていた(左上)。発掘地が品川区とはっきりしたとはいえ、いちばん近い駅は大森だから、ウソとは言えない。

 まず大田区にある「大森貝墟」(左)に向かった。線路際にあるので、近くまで行けるかどうか心配したが、通りには案内板もあり、NTTデータビルの一画に、保存してあった。

 ビルの壁面に、モースのレリーフ(右)と説明もあった。日本電信電話公社の名前がなつかしい。

 もちろん囲いはあるが、すぐ脇を電車がスピードを出して走り去る。真正面からの碑を撮るのは、大変だった。

 「大森貝墟」の碑は昭和5年4月、「大森貝塚」の碑は、昭和4年11月に建立。まるで競争するかのように建てられた2つの碑が、誤解を招くことになった。しかも、建立発起人には、一部だが同一人物も名を連ねている。

 いずれにしろ、この2つの碑は、わずか300bしか離れていない。「どうだっていいじゃない」と思うが、たまたま違う区にあることから、面白い話題を提供してくれることになった。

 「大森貝塚」
の碑一帯は、お墨付きをもらっただけに、非常に立派な遺跡公園に整備されている。品川区は、碑に隣接する地を購入して、1985年に開園。1996(平成8)年には、更に面積を広げて今の姿になった(左)。貝層の剥離標本はじめ、学習広場や体験広場もある。

 
 この碑(左)も線路沿いにあるので、正面から撮れない。これでもぎりぎりのアングルだ。

 縄文土器を手にしているモースの胸像(右)もあった。

 モースが貝塚を発掘したのは39歳の時。もっと若々しい顔にして欲しいものだ。

 モースは、アメリカのマサチューセッツ州セーラムで、1925(大正14)年に、87歳の生涯を閉じた。この像は、晩年の写真をもとに作ったようだ。

 モースは、1883(明治16)年の離日以後、一度も来日していないが、終生、日本への関心を持ち続けた。滞在中に、全国を歩き回り、陶器や生活道具をも蒐集した。蒐集品はセーラムのピーポディー博物館に収められ、ときどき日本に里帰りしている。

 ご当地争いの話が先行してしまったが、肝心の縄文時代の話。 縄文時代は、およそ1万1千年間も続いた。紀元後2000年の歴史の変遷を思うと、1万年は、とてつもなく長い。1万年をひとくくりには出来ないので、土器の変遷をもとに、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の5つに分けている。大森貝塚は後期(4000年前〜3000年前のなかでも晩期に近い、3000年ほど前の遺跡である。

 遺跡公園の次に訪れた「品川歴史館」(遺跡公園から徒歩5分)で知ったのだが、公園に整備した1984年と1996年にも発掘している。その時には、竪穴住居跡も6基見つかったという。

 食べ物(貝がらや魚の骨)の跡、生活道具(土器・骨角器・石器)の遺物、住居跡。これだけ揃うと、海岸上の台地で生活していた縄文人の生活が目に見えるような気がする。右は「モース博士と大森貝塚」より抜粋した「縄文時代の海辺のムラ想像図」。(2006年2月7日 記)

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