日本史ウオーキング

  24. 坂上田村麻呂とアテルイ(平安時代)

 坂上田村麻呂は知っていても、アテルイ(阿弖流為)は初耳だという方が多いと思う。およそ1200年前、岩手の胆沢(いさわ)地方を舞台に大規模で熾烈な戦いが行われた。この攻防戦の主役が、今回の坂上田村麻呂とアテルイである。

 エミシの首長であるアテルイの名は、以前は高校の教科書にも登場しなかった。今は中学教科書に載るほどポピュラーだし、観光パンフレットでは、奥州市を「アテルイの里」とうたってある。勝者から見た歴史書が多い中、結局は敗者になったアテルイやエミシを教科書で取り上げる意味は大きいと思う。

 桓武天皇が即位したのは、平安遷都10年以上前の781年。天皇の2大政策は、遷都(長岡京や平安京)と、蝦夷打倒だった。

 今年の6月7日、日本史ウオーキングの仲間Oさんと一緒に、アテルイの里を訪ねた。私は東京から、彼女は仙台から合流して東北新幹線の「水沢江刺駅」で降りた。まず「奥州市埋蔵文化財調査センター」に向かった。管理係の0さんが一生懸命説明してくれたことで、私には馴染みがないアテルイの概要がわかった。ちなみにこの1週間後、奥州市は地震に見舞われた。調査センターに被害はなかったそうだ。

埋蔵文化財調査センター入口 アテルイの人形 展示室入口
奥州市埋蔵文化財調査センター入口。 ロビーに飾ってあったアテルイ。朝廷を恐れさせたのだから、もう少し怖い人相でもいいのでは? 2階展示室の入口。鎮守府らしく兵が守っている。

 今の岩手県南部地方は、続日本紀に「水陸万頃」とあるように豊かな地だった。調査センターにも弥生時代の石包丁や古墳時代の土器が展示され、豊かな生活を彷彿とさせる。

 奈良時代、この辺りは朝廷の勢力が及んでいなかった。朝廷に与(くみ)していなかったと言える。都から離れた辺境の地を蝦夷(えぞ)と呼び、住民をエミシと呼んでいた。もちろん軽蔑の言葉である。朝廷は、東北地方のどこを蝦夷と呼んでいたのだろうか。Oさんに質問してみた。「宮城県の桃生郡や岩手県の一関や衣川以北とする説もありますが、はっきりしないんです」の答えだった。

 飛鳥・奈良時代に使われた軽蔑語の蝦夷が、今でも東北地方が遅れた地域だとする概念を作ってきた。生まれ育った仙台より、首都圏暮らしの方が長くなった私だが、「蝦夷育ちだから」と卑下してしまう癖が未だに抜けない。

 エミシ社会と朝廷はいつも全面対決していたわけではなく、平穏な時期もあったらしい。でも8世紀になると、朝廷はエミシ政略に意欲を燃やし、多賀城(宮城県)を根拠に胆沢攻略を目指していた。そんな背景があって、789年に第1回征東が行われた。このときにアテルイは、近隣の部族をまとめて朝廷軍に立ち向かった。朝廷軍は大敗。794年に第2回征東。アテルイ側は打撃を受けたが、降伏までには至らなかった。

 そして801年に坂上田村麻呂が、征夷大将軍に命じられて第3回征東。4万の朝廷軍を率いて、アテルイ軍を孤立させた。802年に胆沢城を築城。この立派な城を見て抵抗が無駄と観念したアテルイは、降参した。胆沢の地を守るための降伏だった。この後、エミシ社会は解体したと考えられている。かなりのエミシが西国に、逆に板東からの浪人も胆沢に移された。

胆沢城模型 鬼瓦 胆沢城跡
調査センター1階にある胆沢城の模型。赤い門が外郭南門。奥が政庁。 外郭南門から出土した鬼瓦。ここの目玉なのか、パンフレットの表紙に使われている。 平泉と同じく「夏草やつわものどもが夢のあと」の胆沢城跡。

 胆沢城跡は、調査センターの裏手に広がっている。エミシ征伐の城というより、律令制の役所だったことが、今までの発掘調査でわかっている。田んぼや草地になっている政庁跡や南門跡を確かめながら、せっせと歩いた。一辺が675メートルもあるが、田を渡る風が心地よく日本史ウオーキングには良い季節だった。復元された南門模型を見ると、本格的な役所だったことがわかる。

 ところで、みずから降伏したアテルイとモレはその後どうなったか。田村麻呂は、アテルイと副将のモレを伴い京都に帰還。アテルイとモレに蝦夷地経営をまかせようと助命嘆願したが、公家達の反対にあい、ふたりは河内の国で処刑された。

 後日談がある。田村麻呂は蝦夷征伐の効により、天皇から音羽の地を賜った。そこに清水寺を作り、国家鎮護を祈願したという。京都でもっとも観光客が多い清水寺は、坂上田村麻呂が建てた寺である。開山者を祀った田村堂も建っている。2007年11月の平安京日本史ウオーキングの時に、4人で清水寺を訪れた。いまさら清水寺でもないと思われるかもしれないが、ここにアテルイとモレの碑があるからだ。

清水寺境内図 清水の舞台 アテルイ・モレの碑
清水寺の境内。田村堂とアテルイ・モレの碑の図。 清水の舞台は、紅葉の時期でもあり大混雑だった。 アテルイ・モレの碑。蝦夷地方が浮き彫りになっている。

 清水寺や関西アテルイ顕彰会の協力で、平安遷都1200年の1994年に2人の碑が建てられた。関西にもアテルイに関心を寄せている団体があることに、蝦夷地出身の私は感激してしまった。
(2008年8月28日 記)

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