日本史ウオーキング

 25. 最澄と空海(平安時代)

最澄空海 平安初期に新しく起こった最澄(左・一乗寺蔵)の天台宗と空海(右・教王護国寺蔵)の真言宗は、奈良仏教を批判して仏教界に大きな勢力を持つようになった。天台宗や真言宗を宗派とする寺は、1200年後の今もたくさんある。

 檀家寺すら持たない私が、日本史ウオーキングで仏教の宗派を取り上げるのは荷が重すぎる。でも寺巡りをしていると、ふたりの姿、特に空海があちこちで現れるので、省くわけにはいかなくなった。密教と顕教の違い、天台宗と真言宗の違いを言及するには勉強不足。実際に訪ねた寺を中心に、ふたりの姿を追ってみたい。

 教科書には「最澄は比叡山に延暦寺を、空海は高野山に金剛峯寺を建立して修業した」と書いてある。まず比叡山に行ってみようとなった。

 比叡山は高校の修学旅行の時以来。このときは京都側から訪ねたが、表参道は滋賀県の坂本だ。大津に泊まって坂本を訪ねたのは、2006年5月。この旅のメインは大津京と紫香楽宮で、比叡山はついでだった。

 京阪電車の「坂本」で降りると、そこはもう門前町。坂本は門前町だが、すぐ前が琵琶湖なので港町の雰囲気も併せ持つ。最盛期はさぞかし賑やかだったろう。駅とケーブル乗り場の間の参道には、○○院・○○寺・○○神社が数え切れないほど並び、ゆっくり訪ねたら1日でも足りない。私たちは最澄(伝教大師)生誕の地とされる生源寺・庭がきれいな竹林院・十三体石仏群・東照宮を見るに留めた。

 寺院や参道沿いに使われている石垣は、荒々しい中にも繊細さがある。安土城や江戸城築城に活躍した「穴太衆(あのうしゅう)」による石積みである。表面から3分の1程度に重力がかかるように設計され、秘伝の技が潜んでいるそうだ。

最澄の産湯の井戸 竹林院 穴太衆の石積み
最澄生誕の地に建てられた生源寺の境内にある産湯の井戸。 庭がきれいな竹林院。 穴太衆石積みがあちこちで見られる。坂本を情緒ある町にしている

 日本一長いケーブルに11分乗車して延暦寺駅に着いた。もっと長いケーブルがあると思うが、パンフレットには日本一と書いてある。比叡山には、三塔十六谷三千坊があったそうだ。私たちは時間がなくて、ケーブル終点の東塔付近を歩いただけだ。後に行った高野山のように宿坊に泊まれば、もうちょっと最澄に近づけたかもしれないが、生まれたときは後光が射していた、神童だった、人格者だった・・の説明を、生源寺で読んだに過ぎない。

 根本中堂付近で見た立て札には、比叡山と三井寺が抗争にあけくれていた頃の弁慶の引きつり鐘の説明や、吉川英治の「平家物語」を引用した清盛父子糾弾を強訴する僧兵の様子など、物騒な逸話が書いてある。最澄が修業の場に開いた比叡山も、平安末期には、宗教的雰囲気とはほど遠くなったことをうかがわせる。国宝殿には、いかにも密教らしい像や仏具が展示されていた。

根本中堂 新平家物語 不動明王
延暦寺の根本中堂 比叡山の僧兵が立ち上がるさま 国宝殿の不動明王(入場券の半券)

 比叡山を訪れてのいちばんの収穫は、浄土宗の法然・浄土真宗の親鸞・臨済宗の栄西・曹洞宗の道元など鎌倉仏教の開祖たちが、まず比叡山で修業していることを知ったことだ。なぜ真言宗ではなく天台宗なのか。これではまるで、真言宗が劣っているように思えてしまう。

 ところが、司馬遼太郎の「空海の風景」、五木寛之の「百寺巡礼」など数種の本によると、きちんとした密教を学んで身につけたのは空海であって、実際、最澄は空海に教えを乞うている。仏教界の巨匠ふたりが出会って、かつ決裂した京都の神護寺に歩を進めようと思う。

 京都高雄の神護寺を訪れたのは、紅葉真っ盛りの2007年11月。渋滞を避けるために朝いちばんのバスで、高雄に向かった。清滝川の橋を渡ると別世界と言いたいところだが、石段をかなりの人が登っている。自然石の石段を登りつつ見る楼門は、紅葉目当ての人達にも歓迎の手を広げているように思えた。

 このときは紅葉の美しさに目を奪われ、楼門・大師堂・金堂など肝心な写真を写していない。この項を書くにあたり困ってしまった。

高雄周辺 本堂のお坊さん 瓦とモミジ
神護寺の石段途中から撮った高雄。北山杉とモミジが絶景。
本堂で作業をしているお坊さん 甍にかかるとモミジの真紅が素晴らしかった。

 最澄は767年生まれ、空海は774年生まれ。最澄が7歳年長である。空海が無名だったころ、最澄はすでに桓武天皇の庇護を受け、802年には和気氏の菩提寺である高雄山寺(のちの神護寺)で講義をして、一挙に名声が高まった。

 2年後の804年に最澄は、正式な留学生として資金を充分もらって唐に遣わされた。偶然にも船は違うが、同じ船団に空海が乗っていた。無名だった空海は、国家の保障はなにもない、私度僧として留学だった。ところが空海は、唐の言葉をすでに学び、闇のルートで入り込んでいた密教の思想を自分のものにしていた。

 長安に向かった空海は、真言密教の第7祖である恵果を訪ねた。驚いたことに恵果は空海をみるなり 「私はあなたを待っていた。さっそく密教の秘法である灌頂(かんじょう)を授ける」と言ったという。灌頂は、頭に水を注ぐ儀式だが簡単に受けられるものではない。

 空海より一足早く帰国した最澄は、高雄山寺に作られた灌頂(かんじょう)の壇で、奈良の高僧に灌頂を授けた。しぶしぶとはいえ、奈良の高僧が、天台宗にひざまついたのだ。この頃が、最澄の絶頂期。

 空海が持ち帰った本や仏具を見た最澄は、空海が自分よりはるかに高度な密教を身につけて帰国したことを知る。最澄は812年に高雄山寺で空海から灌頂を受けた。一緒に奈良の高僧も灌頂を受けたので、空海は仏教界の頂点に立ったことになる。

 なぜ2人は決裂したのか。普通の灌頂を受けた最澄は、もっと重要な阿闍梨灌頂を受けたいと空海に依頼する。先輩である最澄に、誇りはないのかと言いたくなる。空海は「密教の真髄を知るには3年の実習が必要だ」と断った。3年も実習できない最澄は、弟子を空海の元に残し、自分は比叡山に戻った。翌年、経典を貸して欲しいと依頼。これに対し空海は強い調子で断ったという。このやりとりで決裂し、再び接触することはなかった。

 密教が何か、天台宗と真言宗の違いはよくわからないままだが、最澄と空海が最盛期の時に活躍した寺が神護寺と知っただけでも面白いウオーキングだった。かつ2人の巨匠が出会って決裂した寺でもあった。紅葉の美しい寺という認識しかなかったことが、少し恥ずかしい。

 空海に関係ある東寺と高野山訪問は、次の項までお待ちいただきたい。(2008年9月18日 記)

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