日本史ウオーキング
 
 26. 空海−東寺と高野山−(平安時代)

東寺の堀と五重塔 空海を「弘法さん」「お大師さん」と親しみを込めて呼んでいる人が、たくさんいるという話だ。空海が生まれた香川県の善通寺は、いつも賑わっている。四国88カ所を巡る白装束のお遍路さんも、今や春の風物詩だ。

 京都の東寺では、空海の月命日の21日に弘法市が開かれる。京都出身の友人が、この市のことを「弘法さん」と話すのを聞いて驚いたことがある。

 東寺(左)を訪れたのは2007年11月。これまでにも数回訪ねているが、通り一遍に見ただけで何も覚えていない。今回は真言宗と空海を少しでも知ろうという目的があったので、収穫があった。

 今は東寺しか残っていないが、平安京の羅城門の左右に、東寺と西寺が建立された。この3つが、平安京の入り口を守っていたことになる。まず東寺に建てられたのは、薬師三尊像をまつる金堂だ。薬師如来は密教の如来ではないので、最初は密教とは無関係の寺だった。

 空海を尊敬していた嵯峨天皇が、823年に東寺を下賜した。空海はすでに高野山に私寺を作っていたが、下賜された東寺(教王護国寺)を密教の根本道場にするために、講堂に密教の世界に作り上げた。

 講堂に入ると、大きいのから小さいのまで、たくさんの仏像がゴチャゴチャ並んでいて圧倒される。でも、でたらめに並んでいるわけはなく、大日如来を中心とした21の仏像が「立体曼荼羅」を構成している。曼荼羅には、密教の根本が凝縮されているということだ。密教の世界をわかりやすく説明するために、空海は立体曼荼羅を作ったと言われる。

 講堂内は撮影禁止だったので、パンフレットの配置図をコピーした。悟りを開いた如来部、慈悲をもって導いてくれる菩薩、叱りつけて導いてくれる明王部、その周囲には仏を外敵から守る四天王など守護神が配置されている。

 境内の西北部に、大師堂(御影堂)がある。空海が東寺に滞在した10年間、不動明王を前に修行に励み住まいにしていた所。58歳の空海が死が近いことを悟り高野山に戻ることになった時に、不動明王が門で見送ったという言い伝えもある。毎朝6時頃御影堂が開いて、国宝の弘法大師像と不動明王が姿を現すそうだ。信者でない者も6時から参拝できるのか。聞きそびれたが、機会があれば早朝にも行ってみたい。

弘法大師像 立体曼荼羅配置図 大師堂
弘法大師像 講堂内の立体曼荼羅の配置図 大師堂の前でお経を読むお坊さん

 空海を求めて、神護寺と東寺とめぐってきた私たちは、2008年6月に高野山を訪れた。南海電鉄の難波から電車とケーブルを乗り継ぐと2時間弱で到着する。梅雨の季節だったが一度も雨に降られず、緑したたる高野山を堪能した。

 霊場・高野山は非常に広い。正門の大門から奥の院までは、半日の観光では無理だ。1日目の午後は、大門・壇上伽藍・金剛峯寺を時間をかけて見て回った。

 金剛峯寺の名は、弘法大師が、金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経の意を象徴するものとして命名したもので、高野山一山の総称だった。今ある金剛峯寺は、豊臣秀吉が亡母のために建立した寺で、以前は青巌寺と呼ばれていた。もともとは弘法大師に関係ない寺だったが、今は高野山真言宗の総本山になっている。「真言宗は高野山の金剛峯寺」と機械的に覚えていたので、空海が建立したと誤解していた。

高野山のケーブル 大門 金剛峯寺の石庭
高野山ケーブルは山の中を通る 高野山の正門の大門。1705年の再建 金剛峯寺の石庭

 空海が高野山を開いたときに建立した諸堂は、壇上伽藍に集まっている。奥の院とともに2大聖地だが、日帰り客のほとんどは奥の院だけを参拝して、ここには立ち寄らないと聞いた。私たちは、泊まった宿坊から近いこともあり、金堂・御影堂・根本大塔などを、昼間とライトアップ後と2回も見学した。

 高野山には現在117寺があり、そのうち52が宿坊寺院。Kちゃんが、高野山の総門である大門に近く、しかも司馬遼太郎が「空海の風景」執筆時に滞在した西南院を予約してくれた。司馬遼太郎がいちばん好きだった作品が「空海の風景」で、私たちはこの本を読んで空海に関心を持つようになった。数ある宿坊から西南院を選んだのは、正解だった。

 45年前に福井県の永平寺に泊まったことがある。供された精進料理は、修行増の手作りだった。当然、西南院の料理も手作りかと思ったが、「仕出し屋から取っています」と当たり前のように若いお坊さんは答えた。高野山のゴマ豆腐は、すりこぎでゴマを練り丁寧に作ると聞いていたのに、過去のことだったのか。味気ない時代になったものだ。

根本大塔 司馬遼太郎が滞在した部屋 精進料理
壇上伽藍の根本大塔。空海がこの大塔を根本道場として建立。1937年の再建。 司馬遼太郎が「空海の風景」を執筆した西南院の部屋。 西南院の夕食。ゴマ豆腐はじめ、ぜんぶ仕出し屋の料理。

 2日目は、弘法大師の廟がある奥の院に行った。出発の一の橋から中の橋と御廟橋を経て、およそ2`で奥の院に着く。ここほど面白い奥の院はなかった。老杉が空を覆い尽くす厳かな参道にもかかわらず、ワクワク感がわいてくるのを押さえきれなかった。

 上杉謙信・武田信玄・織田信長・伊達政宗・豊臣一族など戦国武将、法然・親鸞など他宗派の祖、江戸時代の徳川家など諸大名・文人など名前をあげたらキリがないが、歴史上の有名人の供養塔が林立している。苔むした供養塔や墓は、お参りの対象ではなく、まるで遺跡のようだ。

 真言宗の空海が開いた高野山に、浄土宗の法然もいれば浄土真宗の親鸞もいる。そうかと思うと、敵だった明智光秀と石田三成、熊谷直実と平敦盛が並んでいる。カップの形をしたコーヒー会社の慰霊塔や、ロケット型の墓もある。なんでもありの参道だ。なかでも「しろあり」の供養塔は笑える。しろありを駆除しているのに「やすらかにねむれ」など白々しい言葉が彫ってある。

参道 しろありの供養塔 川に入っている信者
老杉が茂る参道 しろありの供養塔 川に入ってお経を唱えている信者

 なんでもありの参道も、御廟橋を過ぎると、撮影も禁止になり、宗教的な雰囲気に満ち満ちている。御廟橋手前の川に入って、お経を上げている女性3人がいた。金剛峯寺で「毎夕、機械が鐘をつきます。人間が108回もつくのはしんどい」と話すのを聞いた。「鐘をつくのがしんどい」と平気で言い、精進料理も作らない坊さんに比べ、なんと彼女らは熱心なのだろう。霊気が漂い人を寄せ付けない雰囲気だった。

 梅原猛は「道徳を忘れた仏教」という一文で書いている。「今や仏教者は俗人と変わらない生活をしていて、仏教者が俗人より高い道徳を持っているとはなかなか言いえない」。

 熱心ということでは、「同行二人」の衣装を身につけている人たちもひけをとらない。同行二人は、弘法大師と二人連れということだ。御廟の前で手を合わせている善男善女は、弘法大師が今もここにいて、自分たちを救ってくれると信じているらしい。「ありがたや 高野の山の岩蔭に 大師はいまだおわしますなる」

 空海に関係ある3つの寺を巡ってきたが、真言密教がなんたるかは理解できなかった。でも、空海がまれにみる天才だったこと、非常に器の大きな人物だったこと、三筆の中でも傑出して字が上手だったこと、「弘法は筆を選んだ」こと、真言宗を信じるというより空海個人を慕っている人が、1200年後の今も大勢いることが分かった。なにしろ、弘法大師伝説の地は、全国に3000もある。

 司馬遼太郎は「空海の風景」で、空海は言葉に出して朝廷も国家もくだらないと言ったかもしれないとして次のように書いている。「・・空海だけが日本の歴史のなかで民族社会的でなく人類的な存在だったと言えるのではないか・・」。(2008年10月9日 記)

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